(これはウン十年以上前のエッセイです)
脚立からおちた。
見事に頭と腰を強打して、一瞬目がくらむほどでした。
高さはそうでもなかったけれど、まったく手で落下を緩和できなかったから、本当に腰と頭を強かに打ってしまった。
でもまぁ、打ってすぐってのはけっこう気丈なんだけど、帰宅してからが少しばかりまいった。痛烈に痛かった後頭部よりも、直後はさほどでもなかった腰がひどく腫れ上がって、ふつうにねてられないほどに痛いのだ。
あわてて湿布を貼るも、痛くて目がさめる始末。
確かに忙しかった昨今ではあるんだけど、こうした怪我ってのはやっぱり弱ってくるとでてくるのね。んで、知らず知らずの内にきっとかばってるせいなんだと思うけど、首の筋が痛い腰の側だけ、ひどく張るのね。つりそうになってる。
ん。そこは打ってないはずなのに、と思いきや、横になってる格好から起き上がったり、寝転んだり、寝返ったりしてるときに、痛い腰をかばうことを体が自然にしてるみたいなのです。
自覚症状はないけど、実際からだの節々が調子を崩しはじめてしまうのです。
ううむ、体が「痛い」を恐れて、知らず知らずに「かばって」しまう。
その結果、なんともないところまで不調がたたってしまう。
うん、
これはちょっと、人生の隠喩みたいだな、って思ったんです。
我慢したり、無理したり、しのいでみたり、って人はいろんなことを毎日してるんだけど、そうした「自分に害にもなりそうなこと」ってきっとどこか知らず知らずに「かばう」ことをしてると思う。
そして「健康な部分」にどこかしこか、侵食してると思う。
実際、ナニがどうで、困ってるかっていうと、そういうんじゃないけれど、つもりつもった「無理」への「かばい」が、人の人生を決定付けてる場合も見受けるのだ。かばいの連続で、それは「性格」になり「しぐさ」になり「めつき」になる。
なにをかばってしまっているか、はほとんど私の腰と一緒で、自覚なんてもてないから、つまるところ、人は自分をある方向に振り向けているのが自分であるにも関わらずその理由が自覚しにくくなってるのかもな、なんて思っちゃったのだ。
痛い、は避けたくなるものだけど、苦しい、もこわい、もいやなものだけれど、どこか、そうしたものに目を向けていないと、わたしたちは自分のしてるかも知れない決断に、目も、気持ちも、向けられないくらいには弱いのかも知れないですね。
