(これはウン十年以上前のエッセイです)
悪魔、という単語は私にとっては外国の文学の産物であって基本的に日本人にはなじみのあるニュアンスとは思っていない方です。
ゲームとかで育って来た世代にはしっくりくるのかもしれないけど、悪魔という存在だとか発想がどうもなんだか理解しきれない。
テレビで今朝いじめについての本の著者が話してたことが心に入った。
「昨今のいじめは被害者以外はみんな加害者なんですよね」
「加害者自身も被害者の側にならないがために必死で、攻撃が最大の防御と分かっているので、加害者の側にまわっちゃうんですよね」
「被害者も必死で、被害者自身がいじめが起こってないかのように必死になって隠したり、小さくとどめようとしてるんです」
と、言ったようなニュアンスのことを言ってた。
これならうなづける。うん、そうだ、いじめってそういう感じだ。
昨日、あてにしていた、信頼していた人が仕事を辞めた。たくさんいろんなことを教えてくれて、守ってくれて、他人の分も守った人が、今の仕事が好きなまま、辞めた。
私はまたひとつ後ろ楯を失ったんだけど、人によると、今回私は加害者の側じゃないのかとも見受けられるような気がしてるせいか、上のいじめの話がひっかかった理由なんじゃないかと思う。
自分は自分。
自分が自分のままでいるといけない! と言われたら
人は平気で居られなくなる。
自分を否定されている気持ちになるし、悲しくなるし、嫌になる。
いじめ、っていうのは2種類のベクトル(向きのある力、のこと)がかかってくる。
- ・・・他人からジリジリとかかってくる力
- ・・・自分で「なかったことにしようとふるまう」力
ゆがんでるし、ひずんでる力関係の中で、いじめというのは一種の「自分と他人の共犯関係」の側面があるような気がする。
私は専門家ではないし、理解してどうにかなるというほど呑気にもなれない人なので、いじめについてネットでなにか発言するのは嫌な方だ。
ほら、この「嫌な方だ」などと、「嫌だ」とかけるところをわざわざ「方だ」と言って表現を濁すのも昨今の傾向の一つ。イマドキってやつの一員なわけです。
「わけです」ってのも、問題に対して自分を「外野」にさせる安心感のある保険表現だしね。いかんいかん、でも確信犯でもあるのでこーゆーのはこの際後にしよう。
つまりもって、このながやエッセイ自身がすでに「加害者側」を確保してるかのような文面であるのも、人によってはすっっっごく不快なのかもしれない。
でも書く。書くことでしかつかめないし。
私は「戦いにならない」ところに土俵を築けたらいいなと思って過ごしている。
まぁ実際そんなところはねえ!!って言われれば、ないんだろうね。
どこでも、なにでも戦い、とか競い、になるのかもしれない。
なんせ人口ってやつは多すぎるしね。中国インドにくらべれば、日本の人口なんてのはたいしたことないんだろうけど、比較は理由にならないしね(フランスの格言。大好き)。
昔の映画なんか見てると台詞で女の子が言う。
「ンもう!嫌んなっちゃうわ」
プンスカと憤慨しながら言う。とってもチャーミングに言う。
明治時代に森鴎外とか夏目漱石が「全国の標準語」を文壇が産んで来たように、日常の言葉を映画が産んだとしたら、私はこの「嫌んなっちゃう!」という怒り方は映画の産んだ表現だと思う。
スチャラカ、なんてのが流行った時代は、もっとこう、抜け道がたくさんあったんだと思う。
毎日毎日が心底辛くても、抜け道のあった時代なんだと思う。
藤岡弘(仮面ライダー初代)さんの高校時代、こっそり高校を抜け出して映画館で映画を見てたとラジオで言ってた。
昨今のいじめられてたり、いじめてたりする人たちはこういう「楽しい抜け方」ができるだろうか?すぐに補導だの、停学だのというツマラナイ処分しかない世の中のどこにおおらかな生き方、過ごし方を許されるのだろうか。
世の中が真面目、と言えば響きがいい。
でも正確であるだけでも正しいだけでも、人は上手に生きられない。
自分、と世の中、をはかりにかけて、バランスをとる、というのが生きる、ってこと。
バランス、が大事なのだ。
なので
いじめ というのは絶妙にバランス感覚のあるものだと思う。
バランスをとろうとする人たちの中での、
「結託した、助け合いのある、いじめ・いじめられ関係」だから長く維持される。継続される。
うわさがとにかく速い。
とびきりうさんくさい噂が「信じたがってしまう」連中で恐ろしいスピードで流布する。
「信じたいように信じる」くらいのものしか「信じる」ことを使う方法を習ってきていない私達は、本当の情報 以上に「信じてみやすい情報」にコロリとやられる。
もう一度言う、「信じてみやすい」ものにやられる。本当、であるかどうかの検証は今の世の中では一番得にくいものでもある。豊富に、見つけやすくて、便利そうな情報にコロリとやられる。
実際、そうじゃねえ!!ことに、そんなことなんかに、なんでこんなに簡単にコロリといってしまうのか、私達の人生ってやつは人類の人数分あるわけで、ずいぶんと些末に、一斉に、もろくも「流れるように」振り回されている。
「味方の数」の確保こそがせいぜいの正義感。
「一斉にそうである」の一員さんになりたがる生き方、はまとも、だろうか。
みんな、自分、は正しい。
それはそれでいい。
正しい、でしょう?
それ以後にさ
「自分は正しい」だけで生きてて「他人の正しい」とぶつかったときにさ、
「どっちが正しい?」ってなるときに「どっちも正しい!」ってなれば
喧嘩にはならない。でも決着をつけなくちゃならないときには「戦う」のかな。
戦いたくなくて、「戦うことはいけない」から、早々に「戦わない」ために
仲間、になる のかな。
そんなもんかな
そーゆーもんかな
つまんない
つまんないよな
黙って、退散する勇気 も大事だと思う。
自分が加害者側になるのが嫌で、加害者側になるくらいなら、いっそ被害者の側の最も被害のないところに、ひっそり過ごしますってのも、隠居の発想のようで清清しい。
加害者側になることでしか、被害者にならないで済む方法がない、というのはなんだか、本当っぽくて、信じれるんだけど、なんか、こう、さみしいです。
悪魔が入って来て、魔がさした?
駄目だ。そういうふうに私はできてない。
私には、ね。
分かりあうことは、分かりあいきることはできないと思う。
だからバランスをとる
うまくとる。
うまくバランスをとれる人がうまくいく。
うまくいく。
うまくいく、だけの人生だ。
つまんないでしょ。
私にはつまんなく映るんで、まぁうまくやりたい人はうまく、どうぞ。
相手と、自分
周りと、自分
バランス
バランス
バランス
くたびれたら 負け
程度の
バランス
うまくやる、たって
多数派とのバランス の話しなんでしょう?
そんなのゴールじゃない。
あんまり些末におさめないで下さい。
ちゃんと笑ったり、泣きたいので、上手にやる、っていうのは器用さでしかないので、ま、そんなに大事にしたり、重要にしない方がいいですよ。
かといって、他人の不器用をそのまんまにしちゃうことはよかない。
ん?「他人は他人、という『他人という自分』らしさを尊重すべき」ですか?
うん、それで今後もずっとうまく行くなら放っておきます。
他人と言う「船」が川を流れてる時に、私という「鳥」がいて、空から「あ、滝がある」って見えてるのを「滝があるぞおお」って叫ぶのが優しさか、滝はあるけど、言わず、ぎりぎりまで「船」という自分世界の中で楽しんでいることを尊重するのが吉、か。
どっちもそれなりに正しいけどね。
バランスよく生きる以上、いじめは残る気がする。
バランスのいらない世界は いよいよ自分力のある人しか生き残れない。
じゃあ曲がりなりにも、弱くても生き残れる「バランスある世界」を大事にするかい?
自然、はそう優しくできてないけどね。
弱い人は死ね!程度のことしか言わない世界は、悪い世界。
器用で上手な人が生きれるのはバランスのある世界。
そういう中に、自分がいて、選ぶための視野と思索を忘れないで。
どれを、どこを選んでもいい。
その結果は、自分で手に入れられるから。
慎重にね。

