(これはウン十年以上前のエッセイです)
2008年夏、夏の定番になりつつあるね、「時をかける少女」わーい。
DVDも買ったけど、サンプルももってるけど、やっぱり録画してしまった。わーい。
だって、なんだか大好きで大好きで大好きでもう。大好きでもう!ええ、もう。
何度も何度も見ます。見るたびになじんだはずのシーンが新鮮になってて何度でも見てしまうのです。
真琴の泣き方が大好きです。心覚えのある泣き方なんです。
泣いておきながら、真琴は言った。「なんでだろ」
うん。
そう。
なんでだろ。
なんで泣いてるんだっけ
なんでだっけ??
考えればバカみたい。
泣いておいてその訳がわからない。自分で泣いておきながらわからない。
理由がわんさかあると、自分がどの理由で泣きはじめたんだかわかんなくなっちゃうことがある。
そのひとつひとつの理由では泣かないでいられたのに、ごっそりそろってわけがわかんなくなっちゃう。
でーもさ、わけわかんなくなっちゃうまで、そのままでいた人って私は好きだ。
だって計算立ってないんでしょう?一生懸命でいたのにうまくいかなくなって泣いちゃうんだよね。
よかれと思ってやったことが、結局自分から遠ざかってしまう結果になっちゃうことがある。
かつて「コメットさん」のエッセイでも書いたけど、自分から遠ざかってしまう応援を自分がしなくちゃいけないときに、あんまり考え無しに応援できちゃって、頑張っちゃって、結果、やっぱり「さよなら」があって、あっ、と気付く間もなく、その結果に大泣きしてしまう。
泣いちゃうことがいやなんじゃない。
泣いちゃうことはあまり大事じゃない。
大声でさー
ちゃーんと泣ける、ってさ
できないんだよねー
できないんだよー
普通じゃさー
できないんだよ。
普通じゃできないから
からこそ、さー
泣ける人
それもわんわん大泣きで泣けるって人は
いいな、
って思うんさ。
ああ、よかったね
大声張り上げて泣けてよかったねーって
それはさー
すごくいいことなんだと思う。
泣けるって言うのはさー
難しいことなんだって思う。
本気だったんだって自分でやっと気付いた泣き方も
周りに理由を持たないで大泣きできることも
すごく綺麗だと思う。
私は真琴の泣き方が大好きだ。
真琴のかっこわるい泣き方が大好きだ。
ぶざまで本気で大声で泣ける真琴が大好きだ。
なかなかああは泣けない。泣きっぷりが大好きだ。