「だから教祖が「間違いだ」と指弾されてもけっして認めない。
もしそれを認めてしまうと、信じた自分を裏切る事になりますから。」
<問い>の問答 南直哉、玄侑宗久:対談より抜粋。
久々に熱中して読める本。ハラハラしながら読めます。
なにかに安穏と座り込みたがる自分の弱さ、っていうと響きがカッコイーけれど、「不安定でケッコー」的発言連発の本で自分が楽したがってたんだなあと思う事しきり。
「自分」がそう思ったんだから、そう思えたんだから「正しい」って人は思いたいもんだ。「自分」がそう思えただけ、でしかよりどころがない生き方をしてると、「自分のわかってない」ことにも「自分が拒否してる事」にもホンローされちゃっても、なす術がない。そこまでの無様さを容認してるような大器の者であるのなら、いいんだけどねえ。
そんな人は若かろうと頑固爺ぃなんだ。
「思い込む」ことも「言い切り」も、どこか気持ちのいいものだけれど、「そこを基点にあれこれ進める」と、方向も、大きさも、そこに左右される。
「言い切らない」または「言い切れない」うーん、そうですなあ「考えきらない」「考えきれない」と言い換えてもいいけれど、本当は自分でも得心のいってないことを、あえて「あいまい」にさせることでしか「りんかく」ででしか捉えきれないものを、とらえようとする人は、スタミナのある人だ。
言葉で言い切れても、思考で収まりきれても、「自分には分かる」手合いのものでしかなく、そんなんじゃ、「新しいもの」にはならない。