裁判ってものに違和感を感じたのは、その「訴え方」次第で、同じ事案の、同じ状況の存在が、まったく別の決着へと着陸を強いられる不自由さに感じられることです。
なるべくシングルイシューに集約して、事態の簡明な決着を図る。
解決ではなく決着。
争いというのは双方に言い分があり、怨嗟の連結で事後に禍根由来の敵討ちで、人生を消耗させるのを制度的に抑制するものですから、心のうちにわだかまるものは消え去る制度でもないわけです。
人心の平定に一定の威力とか効果はあります。社会的には決着を見るわけです。人の逮捕や拘束勾留にまで及ぶ通念がありますんで、ないがしろにもできなくさせる律法機能が、いくらか再犯や敵討ち、怨嗟を連続させない役割を担います。
その行程上の「争点」の明確化の時点で、互いに諍い遭う同士が得心のいく「争い方」に慣れてない以上、その道のエキスパートたる裁判に関わる弁護士、裁判官などが代弁代理の助力をします。
こうした「当事者以外の助力の機能」があることで、日常生活への支障が減ったり、滞りに苛まれないで済むこともメリットながら、核心部分への肉迫や気概は、一定量そがれる事実も伴います。
当事者過ぎては解決にいたれなさもあります。そこまでは看過できるんですが「争点」が裁判開催後に「そこじゃないのに!」で進捗を始めるときも多々あるかと思います。遺恨禍根あふれる部分へ、事前にどれだけ周到に「裁判向け」にアレンジし直せるか、顕在化を醸成できるか、共感と永続性につながる普遍に到れるか、はもはやテクニックの話です。
あくまで社会性の伴う普遍のうちに落とし込んでいく過程になるため、個人の心根にあるわだかまりに作用できるものに争点があってくれるかは、ある意味二次的かもしれませんが、実際は裁判になってみないと相手の出方如何も鑑(かんが)みられるという、収束に向かい方がスライドする水物。「なんかちがうんだよなあ」感は拭えるものではないのでしょう。
制度としては、社会通念上で「ここいらで落とし所としなさい」の決着の時間なので、解決を心待とうとするに人には、いくらかすれ違い感の伴うものであるのは、ここが精一杯なんでしょう。
心もとなさはつきまとうんだろうなあ。
