先だってのスマナサーラ長老のヴィパッサナー瞑想(入門編)のときに、師がおっしゃっていた言葉で心に残ったものがあります。
瞑想をすることで、賢くなります、ってものです。
得をするたぐいのそれを煽るものではなく、いっときの高ぶりを助長するためのものでもなくですね、もっと日頃使いの平穏な正常にたどり着く感じっていうのかな?平静であるための導線をかんじたのです。
つまり、まんべんだらりと日々に過ごせば、ささくれだったり、凹んだり、日常的に消耗・疲弊が起こるのが「当たり前」めいた日々じゃないですか。
それがね、いくばくか、心根のほうが座りがいいんです。
無論「腕を上げ下げする瞑想」とか「座る瞑想」「立つ瞑想」など、日常使いの平定が自分で有効だなって手応え覚えながら、ほっとし続けれてるのもあるとは思うんです。
返せば、日々の「生きる」を雑に漫然と過ごせば、ただそれだけでは擦過傷(さっかしょう)のように傷は入り続けるのだと、自ら見返せるだけの視座は得た感じです。再認識するための手立てをもってなかったのを、瞑想の機械を契機に、いくらか触りにいけるものくらいにはしつらえ直せています。
不思議なもので、瞑想の前後ではそんな手応えも自覚もないです。むしろ「これの何が役立つよ?」くらいに迷いのほうが多いのです。以前のブログにも書き添えましたけれど、竜巻のように自らの動きに詳細な観察と実況を加えるものなので、迷走中に思い悩んだり考え直せてるようでは、集中が途切れてるのです。そうした「自分の中の実況への忙殺」は、そこを経過後に妙に整頓され直した自分が鎮座してたりする景色です。理由はわかりません。多分解説もしないほうがいいし、分析できても大した利益とはならんでしょう。実践のうちだけに巡りくる実績ってあるんです。
世にいう「賢くなる」にはどこか小狡くなるだとか、小賢しさが伴う語感と正直を覚えます。周囲への働きかけ、が先に立つ印象ですかね。
そうでなしに、自身がただ日々の過ごしを軽妙に継続しやすくあるためだけの、周囲にも配慮しもしないで済ませるたぐいの、内的な安泰、ということに、「賢さ」を充てた言葉だったのだと今は思えるようになってます。
ささくれてたなあ、そう振り返る感じです。
