ともに「空の空間がある」という類似はある | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

自分が「見てる」側だけのうちの人だと、自分がどう見てる、ばっかりを判断材料にしてしまう。少し引いてみて「自分を観てる人」の目線と態度を翻(ひるがえ)って見やると、なるほど、良くしてくれる人の所作や、助言、言質は「こちら相応」で在るのだなと分かるし、過分にも渡さなければ、足りなさの塩梅も理由のあるものだと知れる。

 

邪険にもするわ無視もするのもいわくありげの訳で、あながちスルーしないで、いっそ「ガン見」の姿勢の方が、向こうがうろたえるのも見えるとこまで復帰してきた。ノーリアクションで「ただ観察をしてる」姿勢に終始しとけば、向こうサイドでありようを示さざる得なくなるほど、体裁に据わりが悪くなる。

 

今年に入って「なにもしない」を無為と混同しなくなった。鬱絶頂時にはこれが全くできなかった。なにもしない、はプレーンの維持であって、怠慢ではない。機を見るには待機がいるのであり、盲滅法にガチャガチャして動く愚を抑え込むだけの胆力も要する。

 

思い通りじゃない、がデフォであることを腑に落とせるようになってきたし、人様や事柄の内にあってもささやかながら駆け引きの調子も戻しはじめて来れてる。減ったのは「分かんないまま焦ってる時間」であって、外目には分かんないだろうけど、虚無に支配されてた蒙昧(もうまい)状態は脱した。きつかった。こんな具合までも「感知」できないほどの断絶が鬱には起こる。根性論でも精神論でもない。物理的な切断があると今は分かる。

 

家の話で例えるのがいいかもしれない。

 

「なんにもないがらんどうの家」と「整頓のよくきいた家」は共に「なんにもない空間を確保」する点において似ている。対局は「汚く散らかし放題の家」であり「ぎゅうぎゅうに詰め込まれただけの家」です。これらは「機能を失う」点において同義です。使える空間の確保が出来ないからこそ、探し物は見つからないし、入れたいものを置ける空間が確保できない。

 

鬱はいはば「なんにもないがらんどうの家」状態であり、正常者は「整頓のよくきいた家」。前者は空間はふんだんであっても、使えるものがないので、いてもしょうがない。後者は空間内を使いこなす為に確保されてるので色々な展開も予定も組める。今に限らず、過去、将来に渡っても有用であり続ける、という事実が「詰まってる」ようなもの。複数の存在者が並行して別個の作業も進められるかもしれない要領は、ひとえに「整頓できてる」事実に由る。

 

真の鬱は「混乱しっぱなし」なのだから、「汚い部屋」の表現こそが適切かもね。上の例えでは「がらんどう」なる表現がいささか妙かもしれないけど、心としては「なにも思い至れなさ」ばかりは勘づいてるので、この形容でいいと思う。色々あっても「それなんだっけ?」くらいにシナプスが繋がんないので、混沌ではあるけど、もはや邪魔の認識すら認知に怪しいしね。

あってもなくてもどうせ同じくらい無意味、ですので。

 

これっぱかしがねえ、できなかったねえ。