(これは10年前のくらいのエッセイです)
先週帰省したら、母がお通夜、お葬式に出てたのよという。どなたの?と聞くと、先週入院したと聞いてた、父の高校時代からの親友の方でした。
父が1年半前に亡くなった時に、父の友人連で来ていただけたり、その後も実家仏前にお顔を出してくれてたりしたのです。
父とは懇意にされていて、もの静かな友人。父が一時帰宅できてたときに二人きりで語ってた内容は、聞き取れないくらいに小声で、それでも父がその友人さんと親しげに語ってる様子は、昔からの、ずっと続いてた親交を予感させるものでした。
父が心許して喋ってるのをみてるのは心地よかったし、こちらが預かり知らない父のその方との歴史が盛り上がるというのは、豊かな時間だったと思う。
静かに喋っていられるというのは、それで十分な意思疎通がはかられているってことだ。年期を重ねた友情は、量でもあり、質でもある。景色としてさまになる。頭のいい人同士の会話の景色そのものでした。
人を思いやる、というのは家族のそれもあるだろうけど、友達という、人生のどこかで「知り合えた」だけって理由から、延々続くという思いやりは、縁故以外の強さがある。親しい人が亡くなるというのは、突然ぽっかりと埋まらない空間を抱くことを強いられる。
父の友人さんは、随分何度も病気を患い、何度も手術し、何度も入院され決して身体の丈夫な方ではなかったけれど、父より長生きされたんだといまさら気づきました。小さな病気や怪我があった方が、大病するよりも身体に気を遣えるという通説も、信じられます。
父を知ってて、仏前で父の話を聞ける人が、また一人この世を去りました。
あちらの世界があるのなら、父はじいちゃんばあちゃん、慕ってたお姉さん、お兄さんに出会えていてほしい。そして、ご友人の来訪を静かに受け止めてくれてると思う。
ご苦労様でした。ありがとうございました。父を向こうでよろしくお願いします。
