(10年以上前のからのエッセイ転用です)
津波の検証がテレビではじまってます。逃げ遅れた人の1/3は、警報、避難勧告が出ていても「津波の音がするまで」「津波が見えるまで」退避しなかった方という統計もありました。地震が起こって30分。津波は30分後にきた。
心理として「この目で見るまで」「この耳で聞こえるまで」は「あとまわし」にする気持ちはよくわかる。津波の早さは、「気づいてから」では、到底間に合わないスケールだった。
一方、高台に避難した人というのは、「警報が出たら、避難するものだ」と、眼前になにも起こっていない風景の中を、行動した人だった。幼少の頃から「そういうものだ」と訓練されて来た人は、自分の想像力なんて使わないで避難をして難を逃れた。
「自分の判断」を使って日常生活を続けることと、「そういうものだから」と思考する前に退避行動をした人に、「生き残るかどうか」という分岐があった。
津波の前では、「自分」というスケールで考える事も、準備してきたものも、駄目になった。
「これくらい、大丈夫」という判断は間違っていた。でも行動を起こすのは自分。その「自分」が「大丈夫」って思うときに、行動は起こせない。こういう話は「生き残れた」人の証言があって、はじめて分かる。本当に被害にあって命を失った人には、その理由を聞く術もない。
人は「自分」と思ってる意識で「生きてる」実感を持つ。
「自分」こそが自分自身を、一番上手に運用してると考えてる。
「自分」が決意してこそ、行動に起こせるし、思いも、移動も、自分の意志で行ってるという自覚を与えている。
今回の地震と津波の話は、「自分」の判断のつく大きさを遥かに越えているものだったのは事実。その「イザ」というときに、「自分は、大丈夫」と判断したことで、落命された方もいる。
「自分」という「単位」は、「世の中」とか「自然」の中にあることを、忘れがちなもの。
「自分」に分かってる事なんて、ホントーに少ないものだ。ちっぽけなものだ。
「自分」というのは、他人の知恵や、思いやりの中で、ぎりぎり維持してる細胞の「セル」みたいな薄皮。針で刺せば、ぱちんとはじけるもろさ。それくらいに思っていた方がいい。
「自分」の意識が強すぎると、自分に決断や判断のつくことにしか、注意が向かなくなり、自分の分からない事には知らんぷりを決め込めることを増やすし、慣らす。それでいて実害のない生き方が重ねられ続ければいんだけれど、今度はそれが裏目にでる。
自分が気づかないで済ませた事であっても、それは自分が関与していかなかっただけのことで、なくなってはいない。だから存在し続ける。その中に、自分も生きているというのに。近くに住まわっているというのに。
「自分の中ではなかった事に」するは、別にいい。
なくなってはいないのだ。自分に感知できないようにするには、自分の方でそのアンテナをへし折るだけで済む。簡単。
しばらくは自分の「生きやすい」ふうに進むだろう。
そのはずだ。自分に利便性も合うものしか近づかないよう、フィルタリングしながら生きるから。不都合な事が起こっても、都合のいいように「解釈しなおす」ことで、取り込みにくいものも少しばかりなら、取り込めるだろう。
そうして自分のこころに平穏を生み出せる。そういう材料で自分を囲う回数だけを増やしていければ嫌なものや不都合なものに出会う頻度も減るだろう。それが「生きやすい」こと。
津波の被害はそうした平穏さをぶっ飛ばしてきた。
自分が見るまで、聞くまでは、と判断した人の多くは、流されてしまった。
自分に分かるまで、気づくまで待ってちゃ駄目なものがあるってことを、知らんぷりはしない方がよかったのだ。気づくときには、足下に、背後に、津波がじわりと近づいたいた。
「自分に、分かる」というセンサーは、自然界では一番小回りな直径の感度しか持ち合わせていない。テレビラジオの「警戒警報」も「津波が起こったら井戸に気をつけろ」という知恵も、「自分の外」のセンサーにしておいたほうがいい。
家族や、守るべき人がいる人は、特にそうだ。「自分」以外まで守っていき続けるには、「自分」というセンサーでは機能不足なんだ。
警報が出た時に、高台に向かった人は、仕事中であっても登ってるし、避難袋を持ってたりもした。「本当かどうか」だなんて本人当人には分かっていない。でも決まってたからそうした、という行動理念だけで、生きる事ができた。
そう行動するって決めたのは自分、って言えるのかどうかわからないけれど、その人たちの「センサー」は自分以外のところにまで広がってる。「自分以外」の判断を受け入れて、行動するという、一種の愚直さが役に立ってる。
自分の行動なのに、自分以外の意思に乗っかって、行動する。
これは本当に難しいこと。
その結果は、たとえ自分以外の人の意思ではじまったものであっても、自分で受けることを事前に覚悟も要る。乗っかる、というのは、そういうもの。
だから、何を信じて過ごしているのか、によっても、生きる長さってものは変わってしまう。
「いざ」というときに、それは出てしまうものだから。
「いざ」というときにとる行動だけが、その後を大きく分岐させてしまうものだから。
「いざ」という時以外はいいのよ、自分のペースってやつでも。
どんな人にも来るよ、「いざ」ってやつは。
そのときに「自分」の決断だけで生き残ってきた人には、人生って奴は厳しく試練をくわえてくる。そういうときには、どんだけ「自分以外」の知恵を、思いやりを甘受できるかで、試練を
散らす工夫が、本当はできる。それを昔の人たちから受け継ぐのも「生きる知恵」。
耳あたりのいいことばっかりに、耳を貸してるのは自分。
自分にわかるものだけで、自分を囲い込んで城壁みたいにしても、生き残れない。
私たちは、自分以外といっしょに生きてるんだ。
自分以外を取り入れずに、どうやって生きながらえられるのか、こそを、考える。
いつのまに、どうしてこんなに、「自分」を過信するしかない生き方に至ってしまったんだろう。
そんなに大事にしなくたって、「自分」ってものはなくなりやしない。
放置していて大丈夫なものでもないけれど、過信に値するほど「自分」は賢くも、便利にもなりやしない。
今回の地震と津波で、「自分」という単位を押し広げよう、どこまでもいこう、という雰囲気が壊れたと思った。阪神淡路の地震の時以上に、人々が「なにかしなくちゃ」という衝動に突き動かされてる。ひとつの場所で起こった事が、つながって生きてる全員に波及した震災。
知らんぷりを決め込んでた後ろめたさが、半分自覚されて、見えにくいが力を発揮しつつある。
自分に見えないから、聞こえないから、分からないから、知らないから、であっても結果は甘受する。拒否してもいいけど結果が変わらないんだから、自分の心の中だけでねつ造したって苦しいだけ。甘んじて、受ける。
そのかわり、次に踏み出す一歩は、力強くなる。本気になる。他者の力や知恵まで借り受けて、「自分」ってもののもつ地獄の呪縛を、足かせを、ひとつ、置きざりにして進める。そういう形のものも、勇気と呼んでいい。
