(10年以上前のからのエッセイ転用です)
原子力の会社や軍隊がくり返す言葉、「想定外」。
予想される事態に対し、対処の方法を用意しておくのが仕事の彼等は「予想できなかった」ことをこう呼ぶ。「想定外」。
まさか、ってことが起こると驚くのは、たいてい準備されてないことが起こってしまい、どう応じたらいいのか、てんで困ってしまうだけになる。なにもできない。うろたえる。わかんないことが起こってしまっているから。
9月12日のアメリカのテロの事件も想定外。でもアメリカはその「可能性」を少なくとも想定してたと思われるコメントもたくさんある。少なくともアメリカって国は「想定外」を極力減らす方向へ思考がのびる国柄がある。
日本にはそれが実に乏しい。「想定」の外のことが起こっても、「想定外だった」といって、じゃあ、どうするの?って出だしでズイブン混沌としてる時間が長い。
軍隊とか原子力関係ってさ、思ってもみないことを想定すんのが仕事じゃないの?
って思うのね。テロとかって「まさかそんなことが!」をしでかすからテロになるんであって、「まさかそんなこと」を想像・想定できない、その脳の貧困さは危険じゃないの?って思う。
言いたいことは、「もっと想像力を豊かにする方向にやってかないと、アメリカのテロみたいなのに出会っても、てんでなにもできないよ」っていうことだ。テロはこの先きっと日本でも起きるだろう。起きないはずがない。
世界でアメリカに次いで、豊かな国をどうして周りが放っておくだろうか?アメリカの外交を助け、支持する、といい、米軍基地を保有し、その兵站を請け負う国がそうして放っておかれようかって思う。
その「まさか」な事態をいくつ考えつき、それに逐一準備がどれだけできるか、という、こちらのバイタリティがどれだけたっぷりできているか?がないと、日本って国はたいへんモロく壊れる仕組みのような気がしてならない。
いざって時は必ず来る。その時までに、日本の人はどれだけの「まさか」発掘ができるか。その「想像力」を鍛えることに力をかけているか、が試される時がやってくるのだ。阪神大震災も、オウムの事件も、「想定外だ」って言葉に吐き気がした。正直だけど、なんでそれを言えるの?って怒りが込み上げた。
事件も事故もテロも「起こる」
だから、そうしたことに対した時に、「『まさか』と思えないで済む」次元から歩みだせるようにしておくのが「準備」ってものでしょう。
いざなにか起こった時に国も政府も「みんなをすべて助けきることはできない!」なんですから、考えられる多くの「まさか」をもっと人々に広く考えさせるようにするのが「教育」の仕事だよね。
「先生が生徒を殺す」「親が子供を飢餓させる」「子供が老人を殺す」時代にもういちいち「想定外でした」ってのは聞くのもイヤ。起こるだろ?人間だもの。むしろ「ないことにしておく」っていう内側への思考、小さく「済ませておく」思考こそは非難されるべきじゃないか?日本人、特にそっちの方へスイスイと行くから、それも悪怯れずにやるから、それもみんな一斉にやるから、随分と無頓着なんだけれど、これは放っておけない事態なんじゃないかと、思うのでした。
テロも恐いけれど、テロを目前にぼう然自失でいられるほど、時間はない。呆然としていれば死んでしまうものなんだ。一時をあらそうときにサッと別の思考をとりもどすために、「想像力」、これを鍛えておくようにするのが、かなりの急務なんだと思う。
ほんとうにそう思う。
死んでしまった人の身内も「想定外だった」なんて言われたらたまらないと思う。
