決着の連続・解決ではない | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

 

 ことの次第を正確に掌握し、立ち位置からして「せめぎ合いの突端」との認知なしには、この話の「上手くいった」さ加減が、曖昧になりかねない。

台湾外征がなぜ行われたのか。那覇を出航した2隻の船が暴風によって台湾に漂流。66人のうち54人が現地の高砂族に殺害され、日本が抗議すべく台湾に出兵する。それに対して、台湾を事実上統治する清が日本に抗議してきたので、大久保が乗り出していった。

 

清との話し合いで争点となったのは「台湾が清の帰属なのかどうか」

 

清に帰属するのならば現地人による殺害について清は日本に賠償金を支払う必要があるし、帰属していないのならば日本が台湾に出兵しても清に文句を言われる筋合いはない……ということになる。

 

当時、現在の沖縄県にあたる琉球王国は、日本と清の両方が、その帰属を主張していた。日本側は江戸時代から薩摩藩が支配していたことを理由にして、一方の清側は明朝と琉球国が冊封・朝貢関係にあることを理由にして、それぞれが自国の統治下にあると譲らなかったのだ。

 

その点を踏まえて、今回の台湾外征を観てみれば、どうだろうか。まさに琉球の一部である宮古島の人たちが台湾の現地人に殺害されたために、日本が声を上げたことになる。

抗議したのは、日本が「宮古島の島民は自国民だ」とみなしていたからこそのこと。大久保は初めから「琉球は日本に帰属する」という前提で、清との交渉に挑んでいたのだ。

 

清はその前提を自然に受け入れたうえで、大久保と交渉してしまい、しかも台湾出兵を「義兵」(正義のための行動)と認めたことになる。これは琉球に住む人々を日本人だと清が認めたことにほかならない……大久保の外交は、そんな布石をも打っていたのである。

どの土俵で戦うか、に意図のある趨勢(すうせい)がこもってる訳で、清より一枚上手である大久保の勝利。初動の啖呵にだって容赦ない火花が散ってる。

このことを突破口に、大久保は清と琉球王国の関係を引き離していく。大久保外交が行われた翌年、明治8(1875)年に清で新しい皇帝が即位すると、琉球王国は使節を送ろうとしている。これまでどおりに慣習を守ろうとしたのだ。

 

だが、それでは元の木阿弥になってしまう。大久保はこれを阻止するべく、太政大臣の三条実美に「琉球藩処分方ノ儀伺」を提出。配下の松田道之を那覇に送り、清への隔年朝貢や、新帝即位における派遣使節を取り止めさせるなどし、旧習を払拭させようとした。

 

そうした積み重ねの結果、明治12(1879)年には琉球王国が廃され、沖縄県として日本国に併合される。併合の理論的な根拠に、大久保の外交の成果が大きな意味を持った。

事後はもはや体裁の完遂に終始すれば良くなった。詳細は大筋に勢い飲み下させることになる。

大久保が清との外交で注目すべきところは、またほかにもある。それは、清と敵対関係ではなく、親善関係を構築しようとしたことだ。

北京で交渉をまとめた後、大久保は天津で李鴻章を訪問。李鴻章といえば、直隷総督と北洋大臣を兼務する清の大物政治家だ。そのときに大久保は李鴻章から、こんな言葉をかけられている。

「貴国とわが国は唇歯の間柄で、決して離れるべきものではない」

要所要所の楔(くさび)の打ち込み方、姿勢がいい。

大久保は賠償金について、驚くべきプランを示している。清から勝ち得た50万両のうち、被害者に配布する10万両以外の40万両を清に返還するべきではないか、というのだ。返金した分は、台湾先住民の開花や航の安全のために清に使ってもらうのがよいと大久保は考えた。その真意について、黒田清隆への手紙でこんなふうに書いている。

剣で敵国を退治することよりも、この英断によってアジアの小島である日本の盛名は輝き、いっそう高みに達することであろう」

 

目先の賠償金を手放すことで、日本は列強からも注目され、より大きな外交上の恩恵が得られるに違いない。大久保はそう確信していたのである。結局、この案は実現には至らなかったが、大久保がいかに広い視野を持って、相手国と交渉していたかがわかる。

抜かりのなさが波状攻撃になってる。幾様もの手管をちりばめさせておける器量がある。

大局的にとらえたならば、賠償金よりもはるかに大きな恩恵を日本に与えることになった大久保の外交。

もちろん、大久保の行った方向づけがすべて肯定されるわけではない。なにしろ、琉球併合は、琉球側の意向はいっさい無視して、明治政府により断行されたものだ。また、清と友好関係を築いたといっても、結局は日清戦争で両国は戦うことになる。

手を講じたところで、起こることは起こる。阻止はできないし回避にも至らないわけだけど、先んじて打った布石のいくつかは、心象面において価値あるものだというのは読者諸君と意見を同じくするところです。国家利権の顕在を謀っておかねば、緩いとこから欠壊しかねない日本国政府の脆弱をつけ込ませないのは卓越した見識あってのことだし、豪胆さが伴っていなければ実行に躊躇をみせたはずだ。そこいらへんに不安要因なしに振る舞ってるかの如くに魅せたのは素敵。

メキシコの革命家エミリアーノ・サパタは、こんなふうに語ったことがある。

「われわれの植えた木の果実を、わたしは決して目にすることがないだろう」

それでも国のあるべき未来のために骨を折るのが、政治家の本来の姿だ。大久保もまさにそんな気持ちで、近代国家の礎を作るために粉骨砕身したのだと思う。清から帰国してから暗殺されるまで、大久保に残された月日は4年。本人の知らないところで、人生のタイムリミットが近づいていた。

然(しか)り。沖縄は今日本とともにある。尖閣以上にこじれてた事態を治める者が明治初期にはいて、今はいないということだろう。結果的には「命を賭する」ほどの面目躍如になったわけだけれど、大器には相応の返礼を飲み干す豪快が必須なんでしょう。国家の運営は「いい人」だけじゃ足りないのだ。