されてきた側の反撃ののろし | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

いかばかりかの、社会の方がごり押しや無理強いで押し通せた時代の惨禍を、裏方として「済まされて捨てられてきた」側が、にわかに逆鱗に拮抗するかのように反撃する時代に入ったのかもしれない。従来なら歯牙にもかけられぬ存在が、「ないこと」で済まさせないと反旗を翻してる、そんな風に見えます。

 

ガーシーさんにしても、安倍さん銃撃した犯人にしても、NHKをぶっ壊すしか繰り返さない人も、例え多くの人が中途でその存在たちにあてがわれた不幸や苛みは、圧倒的に見過ごそうとしてる側に、日和って来た事柄でした。切って捨ててた実感があります。

そこが年月を経て、その私怨の鬱憤を返しにきた感じです。返される側は「いまさら?」の顔もしてますし、「ぶりかえすの?」みたいな感慨に見舞われてる気がします。

 

やってきたことは「とるに足りない」ことではなかったのです。

芸能人の不都合もみ消しも、カルトによる集金も、みなし公機関の横柄な振る舞いも、「表沙汰」に足る十分なものだったのに、「円滑」と「経済効果」をとった結果が「ないこと」へと事態を押し出し、見ない事で済まそうという雰囲気重視を力づくしていたのでしょう。

 

しっぺ返しの原因は「切って捨てた側」にありました。ある意味相応な返礼の機会を、日本人は比較的「水に流す」理論で亡きものにしてきてましたが、時代が去ったようです。記録に残され、リフレインされ、蒸し返し続けられるに足るガジェットの充実、個人発信の容易さは、それらに加勢できました。条件が満たされたものから、順次「許さない」の実践が見えはじめました。

 

ある期間、「ごり押し」は平常化されて、いつしか堅牢になってきてました。黙って負けとけ、とされた側は延々耐えて泣いてました。エスカレートしたのは「苛んでる側」の方が先でしたね。「見ない事にしてた側」に加勢してた雰囲気は、にわかに容易に「反対側」にも思い入れる自在さを怯みませんでした。そう見えてます。

 

「いじめてきた側」が易々と逃れられない時代にシフトしたのかもしれません。「いわんや悪人をや」の心根なしには解決は容易じゃないでしょうね。