この一週間で2度ほど、体全体に内側から熱がわき上がってくるような熱波のようなものに見舞われ、体調不良に見舞われました。急に気温が37度越えなんてのがあったせいだろうけれど、倒れるにしてもなにか拾ってやろうと症状の観察に移りました。
くたびれるってのは、もうちょっと踏み込むと「くたびれた」という帰着の状態というよりも、「エネルギーが注ぎ込まれる以上に、漏れだし続けてる」ようなものでした。次の挙動を自分の心が要請してるのに、そこへ動き出す為の最初の弾み車すら動かないほどの「徒労感」が勝つのです。仮に無理を押せば、しくじる事は必至です。
まずはだだ漏れ気味のエネルギーの充足状態、もしくはプールできるまでは安静を試みます。とにかく余計な事をしない、くたびれに繋がる一切を遮断する。嫌な事は後に回し、正しかろうがなんだろうがその時はしない(私はこういう局面でも、「正しいから」でうごきだすことがままあるので)。目がくたびれてれば、間接光にしたりお香を焚いたりします。
エネルギーの未充足。年齢を重ねるごとに、「エネルギー」はかつての無尽蔵っぷりからはなれ、シェアの配分を予め目算せねば、しくじりやすくなるのがいきものってヤツです。かといってなにもかにもに計算づくが、面白くないのも本当です。
ゆえに自在に転用の利く、自分の中の「エネルギー」は確保しておきたいのが年を経たもののかなり本気で深刻な要望なのです。ヤングには「当たり前にある」ものが、年配者には限りあるものに変容してるんです。
くたびれる、はまさに燃料切れの同義です。鬱煩ってから、「脳内にエネルギーが供給されない」が本当に起こるのをよく知ってますんで、それが怠慢やズルのそれではなく、自らに危険すら招きかねないし、引いては他者へも被害を被りかけさせかねないシリアスであるのは、見逃せないんです。くたびれる、は放置するに値しません。善処せねば、被害のでるものです。「なんにもなかった」は運のいいだけであるのもわかります。
という訳で、今日は自分の魂内に「エネルギー」が溜まるまでは横になってました。運転もパソコンも、なんならスマホ見るのだって忌諱です。避けきる勇気が出ないうちは、とろとろとエネルギーを小出しに消耗し続けて、疲弊感はそのままです。
疎(おろそ)かに考えないで下さい。老人たちの運転などで「アクセルとブレーキ踏み間違えた」の類いは、こうしたエネルギー欠損状態で起こる朦朧が「無視」されて昇華された事例に過ぎません。エネルギーの欠損、侮るなかれなのよ。
そんな訳で、この日元気を取り戻せたのは、彼女さんの仕事が終わって、愚痴を聞いてる間でした。半日動けなかったけど、安静って割り切れたのはいい事でしたわ。次回もこうしよう。