(10年前あたりからのエッセイです)
今年は桜を見ないだろうなあ、と予感してた。
見れない、ではないし、見ようと思えば風景の中では必ず目には入る。
花見って、「見るともなしに愛でる」具合が絶妙なアレですから、「見ましたー!」でも「見ません!」でもない、グレーな感じっつーんでしょうか。「今年の桜もよかったね」となる具合の「覚えて方」に収まる感じの「みかた」がちょうどいい。
とするなら、ともなくも今年は春先にかけていくつかの心配事が重なっていていくら桜が綺麗に咲き誇ってくれてても、心底楽しめない心象だったのです。
というか、心が塞いでいなくちゃ、太刀打ちできないくらいに、「何が起こっても大丈夫」にしておかないといけないときってのが人生にはあるじゃないですか。
周りの誰彼に頼れるようなことならいいんですけど、ここ一番、自分がしっかりしなくちゃってときには、手を出すものを極力抑え、全方位に「さあ、かかってこい」という準備をする。
そうはいっても「いつ出動か」は判然としない事態ってのの方が多いもので、常々、緊張を維持してた訳です。そういうときって、もう思考が停止しちゃいますね。なーんも考えがまとまらなくなる。そして「新しい情報」を受け付けなくなるんです。
周りの人は、励ましたり、頑張って、とかいっちゃうんだけど、アレっていかんかもなあ。
「なにみて、どこみて励ましてんだ!」とか思っちゃうくらいに疲弊・困憊・錯乱してる人もいるよ。「ありがとう」って言わせる、言わせしめる状況に追い込んじゃいけないくらい困ってる人だっている。
私の認識としては、「桜の季節」は分かってるけど,「今は、いい」って気分だった。
「それどころじゃない」とまで感じたくない自分がいた。そこまで自棄な感情に持っていきたくないっていう心象。だから、敢えて「知ってるけど、あとにして」とすげなく振る舞うしかない、一種のミジメさがあった。そうはいってもミジメさを自覚してられるほどに,ゆとりがないのだ。
ミジメですらいられないんで、ひとまずなかったことに「しておいて」という自分をだますような感じっていうのかな。
ガッカリもミジメも味わってられないくらい、事実や現実って流れ込んでくるよね。
感情を使ってる暇がない。
そういう風にしてると、もう、入らないんだよね。
風景も。感情も。
そののっぺらぼうな感じが、嫌でもなくなってくる。
そうでなくちゃ、「いつまで向き合い続ける事になるか」わからない事態ってものに、自分の正視が利かなくなっちゃうのだ。
「見ていないわけにはいかない」事実を前に、「いつまで続くか分からない」ことが予想されるともう、なにをどれだけ備えてればいいのか。どこに、いつまで、どう心配してたらいいのか混沌としてきちゃう。
こういう時は、なるべくシンプルにしていくしかない。
迷わないで済むもので、生活の周りを形成する。単調で、手早く結果の出るもので周りを囲み、いざという時のために,自分の心の中に、最大限の「ゆとり」を確保しておくしかない。
心が弱ってると、悪い方へ、悪い方へ、事態を予想しがちになる。
自覚して、「あ、悪い方へ考えていってるな」とわかっていればまだいいんだけれど、そういう時って、自分が「最悪の事態も予想しておく」とか思って、特段悪く考えてるつもりじゃないままに、わるーい方へ考えてしまってることが、まま、ある。平時にはしない、ドタン場の「雑さ」みたいなもので、自暴自棄な思考をしてしまいがちになる。
気分転換、って言葉、あるじゃないですか。
あれって、訓練してないと、できないんですよね。
急に思い立ったように、今までしてこないできた「気分転換」が、突然上手になるはずないんですよね。
ましてや、自分の生活がふらりふらりとしちゃうほどの、深刻さのある事態の前では、いよいよ「気分転換なんかしてる場合か!!」って怒りにも似た反感がうまれてきちゃう。
でも、そんなときこそ、気分転換できないと駄目なんだよね。
目の前にそびえる超不安な中にあって、「力づく」のように発揮される「気分転換」こそが自分に、なにかを突破させる、最初の息吹になるんだ。
つまりは、コッテンコッテンのピンチの最中で発揮される「自分の主観から、自分自身をずらして見やる目線」を確保できないと、冷静には戻れないんだ。
戻れないと、もうひたすら「悶々」「悶々」の繰り返しですね。
繰り返してると、その波は、確実に高く大きく破壊力を増しちゃいますね。
今回つくづく、そう思いました。
いかに、自分を冷ますかに終始してました。全然だめですね。自分の感情にはついうっかり、っていうか、まったく太刀打ちできないまま負けちゃいますね、人って。全然上手になれやしない。ブサイクなまんま、うろたえて、焦って、怒っちゃいますね。
結果的に、私は「ホッとできる」状態に戻れた時に、涙が出てきました。
そしてはじめて気づきました。「ああ、気が緩んだんだ」と。
そして「ああ、じゃあ、気を張ってたんだ」と。張ってた事に、気づききれませんでした。
当事者って、そんなもんなんですね。しっかりしてるつもりでも、そうじゃない。
体の方は、それを分かってたようで、ほっとしていいよって体のどこかが発した信号を、私は涙腺で気づいたんです。嬉しいのに、泣いてる。さっきまで普通だったのに。いつGOサインが出たのかも、我ながら知らずに。
そしてやっと、「ああ、桜・・・・・・綺麗だったんだ」と気づきました。
ずっと咲いてたのに。ずっとあったのに。つぼみから、みてたはずなのに。
桜が、綺麗だったんです。ほんわかして、ぽかぽかしてて、はらはらと咲き誇っていました。
桜の綺麗さに、先に気づけてたら良かったんですけど,私は自分がほっとできるまでとうとう桜に気づかなかった自分でした。つまり、心が、閉じてたんですね。いいとかわるいじゃありませんよ。
まぁ、入らないんですよ。空いてる分しか。
自分の中に、容量(キャパシティ)を確保しないと、新しいものや、目の前のものは「素通り」するしかないんですね。それでいいんです。
それを取り込みたいと思うには、自分の方に、その「場所」を作ってあげないとね。欲張るだけじゃ、駄目なんだよね。駄目なんだよ、全然。
