色々思ってるから、色々言えなくなる、なんていうことが世の中には随分たくさんある。口にすれば自分の思っても見ない方向にいきがちになるのが嫌さに、普段は噤(つぐ)んでいたり、ふて腐れてみたりしているけれど、人の心の根っこの方にはいつも「ホントはね、自分はね・・・」っていう「全然言ってこなかった・言いたくない、できてしまった自分」があって、それが表に出てくるしかない局面があってはじめて、途方に暮れる自分に向かい合う時がある。
積極的に向かい合いたい訳じゃない
できれば避けに避けきって済ませられればどんなにかいいだろう
そう思う反面
いま、ここで対峙する時が来ておいて良かった
この1回きり向かい合えておければ、この先の自分も少し気が晴れているかも
そんなふうにも「少し居場所を確保できた」感覚も備わる、一種のマイルストーン。
節目のない人生はないんですよね、要所要所があります。
「ずーっと言ってこなかったこと」「もうこれからもずーっと触れないでいくこと」の中にそれをしてる人の静でも確固たる決意はこもり続けて、多分死ぬまでそれを通すんだっていう維持を決め込んでいるから、周囲はその「見せなさすぎてる」が故にそれに気づいてくれてるけれど、触れないでくれている。そうした人・双方の「触れなさ合い」もまた、思いやりだなあって思うのです。
優しさにも憎しみにも音や形がないから、そうしたものを見つけられる人っていうのは、よくできてると思います。その機能が「要る」から備わるんですよね。
