故人の声 | アメブロなpandaheavenブログ

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秀逸なコラムとおみうけしたので引用したいのです。

『ネットで故人の声を聴け 死にゆく人々の本音』光文社新書
古田雄介/著

 

2022年2月末、ロシアが隣国ウクライナに軍事進攻を開始した。連日、TVやネットでは侵攻の進捗と、それに対するウクライナ市民の抵抗する様を流し続けている。ブラウン管には、幼子を抱えてシェルターの片隅で震える母親や、離れゆく父の姿に涙を流す子どもたちの姿が映され、世界には平和を希求するシュピレヒコールが溢れている

 

そこには、逃れるべくもないミサイルや銃弾によって奪われた命の尊さと空しさが溢れ、日々更新される死傷者数の数には、もはや形容する言葉さえも浮かばなくなってきた。半世紀を超えて生きてきた私だが、今ほど、命の尊さや尊厳が語られた時代を知らない。刹那的思考の強い現代日本人は、世界でも類を見ないほどに自殺願望者が多いと言われているが、これほど現実的な命のやり取りを見せつけられてしまうと、果たしてそこに、自身の刹那的な思考など入り込む余地などあるのだろうか。


少なくともネット上には、命の尊さや大切さを改めて語り合う、そして平和をこそ望む声が溢れかえっている。そしてそれは、どうやらネット上においては、命ある者の声のみならず、命を落とした者の声もつぶさに残されているに違いない。

 

パンダ

 

自分がガンになったことを告げても、保険金のことしか話さない母のいる気持ちを、知っていますか。
自分がガンになったことを知って、私名義のマンションから立ち退き要求の調停を起こす元夫がいる気持ちを、知っていますか。
(略)
生涯
誰にも 何にも
頼ることができない孤独を、知っていますか
(2009年7月14日「私は、全て知っています。」)

 

これは、本書が紹介する、人生の終末を目前にした15人の方の中の、9歳(当時)の息子さんを持つのんさんのブログ。何と形容しても見透かされてしまいそうな程、強烈です。果たしてこの母親は、闘病に苦しむベッドの上で、どれほどの絶望を味わったのでしょう。それは、病との戦い以上の苦痛と孤独をもたらしたに違いありません。と同時に、かつては本書の著者と同じような仕事をしてきた私にとって、この母親の取材や、ましてやインタビューなど、思うだけで心のメーターが振り切れそうになる。

つぶさに見て取る目が備わる人には、世界にはこうした事柄が身近で頻発しているのを知ることになるし、その際の当人と周囲の無力感は既知のナニガシカにひとつ加わるだけになる。

古田 書き手が亡くなっても、無料のSNSやブログ、ホームページならサービスの提供が続く限り存在はします。サーバーを含めて有料でサイトを運営している場合も支払いが続く限りは残るでしょう。しかし、存在はするけれど誰のものなのでしょうか? 亡くなった人のものであり続けるのか、遺族のものなのか、運営元のものなのか、あるいは公共物なのか。(中略)


バトンタッチが明確になされていると、引き継ぐ側も見る側もスムーズにシフトできるところがありますよね。(中略)


折田 実際に引き継がれる方にとっては、簡単な話ではないですよね。残された側としても消したほうがいいと思うこともあるでしょうし。引き継ぐにしても、そのままの状態で保管する方法と、新たにコンテンツを作っていく方法があり、どちらが正しいのか、それを誰が判断するのかは一律に決められるものではないと思いますが、残された側の心情としては、どんな形であっても残せる道筋があればよいと思います。

 

本書が紹介するブログやSNSは、重篤な病や逃れ難い苦境から死を迎え入れようとする方々の、圧倒的な覚悟をもって発信された言葉だが、私たちの周りには、そのような覚悟も無く綴られ、誰に読まれることもなく、膨大なブログの海に漂う故人の言葉が溢れているに違いない。

読まれる覚悟は無くとも、無いからこその本音や弱音が、故人本来の言葉で語られていたりするのではないだろうか。きっとそこには、残された者に故人を喚起させる以上の迫真の記憶が綴られているはずだ。

果たしてこれらネット空間に取り残された、遺言にも近いラストメッセージの扱いは、もはや進化することの止められないネット社会に生きるうえで、とても重要な課題のように思う。

 

さらに本書は、自死を希求する方がブログを立ち上げる際、その下地にしていることの多いレンタル掲示板「したらば掲示板」の掲げるコンセプトが紹介されている。

 

この掲示板の特徴は、個人的な体験談や告白を大切にしていること。そのために自分を語らないで、「道徳論」で他人の投稿に水を差す書き込みは見つけ次第、削除処分にしています。「ああやればいい、こうやればいい」なんて相手を満足に知らないで、体験すらしていないことを適当に勧めることも同じ。年齢、性格、感受性、好み、知力、体力、家庭環境、経済力。個人個人はみな違い、出来ることもマチマチ。だから対話を通じての一対一の解決策は机上の空論であってはならないし、「適当」ならこの掲示板は必要ないのです。

 

故人が置かれた状況や環境。加えて、個々の性格や能力には当然ながら差異がある。それでも誰かが思いを吐露し、それに対して何者かが賛同し、また助言を述べる。そこには、当たり前の道徳論やありもしない常識などの入り込む余地などあってはならないのかもしれないそれでも何かを、その命がけの言葉から汲み取ろうとするならば、求められるのは聞き取る(読み取る)べく真摯な姿勢と、寄り添えるだけの最大限のイマジネーションを発揮する能力だろう。
そう。読み手に求められているのは極めて高い能力である。本書の著者は、そんな高い能力の持ち主なのだ。

そう。

 

素手で突っ立ってるだけでは故人の心根にはいささか届いていないものがあり、そもそも正確足りえないものではあるだけに、肉迫を試みるには際限のない積極姿勢がいるし、しかもそれは迫るほどに「消極面」が突出していく類いのものでもある。

 

心は相応にぼろんぼろんになり、人によっては日常生活に支障を来すほどになる。きたすからどうだというんだ?それでも忘れないでいるし、残さないでいるなんてできやしない。自分が憶えていなくては、自分の中の宿りだけがよすがである霊魂との連結を、自ら切って捨てるなんてどうかしてる。

 

ここの共感すらも世間的には疎まれ、避けられるというのに。

ここに真摯でいることで、辛うじて保っているものがあるのに。

 

マイナス以外のものが宿っているのが見えている人には、この橋頭堡は手放す対象ではない。

今や文明社会を支配しているかとも思えるインターネットの仮想空間には、何者かに対する呪詛の言葉や救済を求める言葉が溢れている。それらを前に、30代にしてやっと携帯を手にした私などは、どうしていいものやらただ呆然としているだけだ。ましてや、付け焼刃の死生観など、一切通用しない迫真がそこにあった。これからも日日進化し、拡張され続ける仮想空間とそこに蓄積され続ける記憶や記録とどう向き合うか。それは、この後の人類にとっての最大の課題になるに違いない。
本書『ネットで故人の声を聴け』(光文社新書)は、そんな21世紀人類にとっての大命題を突きつけてくる恐るべき一冊だった。

 

文/森健次

息が詰まるような部分。

ネットであっても遺書であっても「その人がそこにいた」から残せたほんの一部。

ないことにはしない。なかった、のと、いなくなった、は全然別のもの。そこを混ぜるようなことには加担しない。人間だもの。

 

「生き残ってる側」にいただけのことである私たちは、こちら世界の「日常規範」に合致しない生死観をいつも五月蝿く感じ、正体の知れない違和感を憶える。その解消に誰もが迫っても来ない。腫れ物に触れるような顔つきの人すらいるし、興味本位で触れて来る不遜な輩までいる。

 

そういう中でも、この身を切るような視線に切り込んでくれてる著書があることですら「救い」を憶える。

 

 

ウクライナでは「なにも残せないうちに死に至る」人生が堆(うずたか)く積み上げられてる。見上げる私たち。狂ってるのは、どっちだ。