「八重の桜」が見れるんです やっとテレビ見て過ごす人になってきたのかも | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(☆10年前のエッセイです☆)

 

「八重の桜」を毎週見ています。大人になってから、はじめてのことだと思います。NHKの大河ドラマはずっと続いているんだから、つまり半年前まで、私は日曜のNHK大河を見れてこなかったことになります。忙しいとか、見る気がなかったとか、言い分としてはなんとでもつけられますが、つまりはNHK大河を見流すだけのゆとりがなかった、というのも側面の一つとは言えます。

今朝、長年連れ添ってきたブラウン管テレビが、ついに画像を映さなくなりました。地デジ化などと騒がれても、アナログだろうがブラウン管だろうが、使えるうちのものを一斉に無力化するような催しは、その趣旨が気に入らなかったので、ブラウン管テレビが見られるように外付けチューナーをつけたり、アナログ変換するアダプターを買いそろえたりしてしのいでおりました。
さすがに画面が映らないとあっては具合が悪く、その寿命を全うさせた満足感もあり、本日電器屋さんにて処分の手続きも済ましました。今は亡きSANYOブランド。横長ってだけでキラキラして見えた時代のブラウン管テレビでした。永らくありがとうございました。

そのまま、リビングにテレビなしってのもいいかな、と思いつつ、客間の19インチ液晶を置き換えてみるもちぃと大きさが貧相で、このごろようやく「テレビをみて過ごす」という自分にも少しびっくりしてるのでこの際少し大きめのを探してみました。

縁あってちょうどよい大きさのシャープ液晶が手に入り、夕刻には八重の桜が見れたのです。NHK大河、丁寧に作られていたんですね。いいですねえ。反面、どんだけいい作品をこれまで見過ごしてきちゃったんだろう、とも思えるようになりました。

今の今まで、なんだか、焦って焦って焦って、すごしてきちゃった気がしたのです。新しい仕事ではびっくりするくらい失敗と失態と抜け、ポカミスを繰り返し、私の名は「失敗」の代名詞ってくらいに毎日・毎回失態続きなのでした。怒ってくれる人もいるし、遠くから見てる人もいるし、かばってくれる人もいて、ああ、失敗するっていうのは本当につらいものだと思いつつ、怒ってくれたり、迷惑がかかってるのにかばってくれたりと、人のつながりがみえたりして、色々思うところがあります。

失敗を続かせていますが、本人はいたって真剣に、手抜かずやってます。つまり、どんなに気持ちを注いでも、込めても、ひたすら失敗を繰り返すのでした。ですから怒られる以上に、自分が馬鹿じゃねえのかと見下げたり、嫌になったりする1~2ヶ月でした。激しい自己嫌悪から、斜に構えた顔つきにすらなりました。

反面、「自分にできる量を見極めてもらってる」期間でもあります。失敗の仕方、ケアにかけられる気力まで試されているんなら、加減なく見せるべきだと赤裸々にやっています。
失敗を減らすには、チャレンジを減らせば減る。慣れても減る。時間が軽減してくれる要因も多いのです。

「慌ててる」と言われます。実際パニックを起こしてますし、思考も停止しかけるほどの狼狽を味わっております。放り込むだけ放り込んできた量の仕事で、「失敗しないわけがない」状態で失敗もしてますからどこか堂々ともしています。でも困惑し、説明不足の中で悶絶する毎日で、こうしてエッセイも進んでいなかったほど、気持ちに整理のつかない毎日でした。

そんなさなかに、テレビが見れるようになったのでした。
いままで、どういう人でやってきてたんだ、俺は。

愚痴めいてはいますが、できることも増えているのです。知らなかった人と出会ってるし、話し、行き、力添えをしています。うまくいってるかどうかはよくわかりません。そういうんじゃなく、自分が再スタートができる人なのかってのも日々向かい合う感じなのでした。

案外、丈夫なんですね、人っていうのは。
案外、もろいもんですね、心の中ってのは。

「自分の頑固さ」というのが、自分自身を蝕んでしまうことを目の当たりにしています。年をとるということ、自分の考えってものに固執してる人の末路ってもの、夢見がちであること、口の上手い人に共通のもの、嘘を常駐させる大人がいるってこと、保身ばかりに終始する人と、それがずっと他者に見据えられている人。社会って多彩なんだなってつくづくしみます。

「本調子」になろうと自分が気張るほどに、他人は同じところにフォーカスしていないものです。他人は、その人の「背中」をみてる。本人はその真正面ばかりを取り繕うけれど、本人が見えないところを、他人は見ています。「言った」ことも覚えてますけど「言わないで済ましたこと」とか「忘れたこと」までも、覚えられていて、本人が思ってる以上に「姿勢」「所作」が暴露されています。

取り繕ったって無駄です。他者がしてくれる評価に手は加えられません。見えるように見てもらえばいい。見せたいように振る舞ったって、見え方は相手のものですから。いいも悪いもなく、どんと立てばいいのです。

一見苦手に見えたり、嫌に見えたりするものだって、永遠に続きやしないって体感しております。かといって、有利になったり、願いが叶ったりってもんでもないのです。プラスマイナス・ゼロのてんびんのような、シーソー状に毎日が流れていきます。

今がつらいからなんだってのよ。
それはそれ。味わえばいい。今のものは、今だけのもの。
いいことがないからどうだってのよ。いいことがあるはずだって希望そのものは「当然の権利」みたいなものじゃないですよね。「あらかた決まった明るい展望っぽいもの」で自分をだましだまししてるほうが不健全かもしれないしね。

迷うねえ、人生って奴は。一度しかないから。
うろたえるねえ。焦るねえ。
でも味わうよ。
他人にひらかれる縁、たしかにあるね。

来週1週間でもいろんなことがあるだろうな。いろんな気持ちを育むんだろうな。そんなのがないまぜになって、落ち着かなくて、不安だったり、分かんなかったり、なんとかしなくちゃとかおもいながらさ、新しいテレビで来週も見るよ、「八重の桜」。 

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