(10年前のエッセイです)
時間が取れるようになり、読書に本腰をいれてみようと思った矢先、はて、読書は楽しいのにネットを見てる時のあの「喪失感」といいますか、「所在なげな感じ」は全然別物だなあとふと思い立ち、こうしてエッセイにしたためております。
基本的にネットサーフィンは疲れます。有用な情報でもメールでも、私は疲れを覚えます。そしてどこか心の奥で「できれば使わないで済む方がいい」と感じた「静かな抵抗感」が残ります。
一方読書は「好きなときに好きなだけ進めて、好きなときに閉じる」感じがして実に好感度です。ヒョッ、と好きなページに繰り出せて、早送りも巻き戻しも便利な感じです。
同じ「読む」「見る」という行為が、脳の中で分けられています。
ネットサーフィンは基本的に「便利」さで使っていますが,読書は「楽しさ・うれしさ」が先行してます。個人的にパソコンでゲームをしないので、パソコンを使った「楽しさ」が少ないせいもあるでしょう。
ネットサーフィンは「目で追う」感じがしますが、読書は「脳で判断してる」感じもします。ああ、そうかぁ。ネットは「感じる」が強く先行する印象です。新聞にせよハードカバーにせよ読書は「脳の中で組み立てる」姿勢がある感じがします。
ネットは「便利」な感じがする,と書きましたが、もうひとつは「ことごとく『買え!』『知れ!』」となにかにつけそうした心理に、こっそりリンクさせられる苦痛が、根底に感じます。
そのシレッと組み込まれた静かな「誘導」みたいなうさんくささが、生理的に拒否してしまうんでしょうか。
基本的に「放っておいて欲しい」ので、サブリミナルみたいに、それとなく推されるっていうのも嫌なんです。読書、新聞ってものはそうした「仕込み」を見つけにくいので、ホッとしてる感じです。
冒頭に書きました「ネットした後の喪失感」とは、「自分の時間は自分の好き勝手でいたい」ことに反するが故の事のように思います。
自分の意図以外のものに時間を、しずかーに、勝手に滑り込んで利用されてる余地があって欲しくないんです。広告バナーでも、文字リンクであっても嫌です。シンプルを嗜好してる最中なんですから、できるだけ情報量が洗練されてて欲しい。余計なものにそらすものが満載のネット文化は、「脇道の嵐」です。すうっとシンプルでいたいときに、「あれも、これも」にさせやすいネットは、はからずもしんどいのです。ぼうっとしてるときに、ずんずん詰め込まれてきて、嫌なんです。
常々どこかにたどり着かされている感じ,っていうんでしょうか。
上の事がガジェット好きな私がipad、iphoneに走らない理由のような気がします。
読書の「真の便利さ」のほうが好感できます。ネットのは「眺めてる」なんですよね、基本的に。感覚的な印象ですが「身に付かない」ことが多いです。

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