パンダは元来が「ずいぶんな意固地」と「あまのじゃく」がスタートラインの性格です。その支障故に、意識して「人の話を聞く」訓練と、「心を外に向ける」を意識的に培ってきたつもりでした。
気づけば鬱病になってました。その時点で「いい人」の面の皮は一旦捨てました。頼まれたら嫌といえなかった性格を、鬱の治療期間は「自分の好きをまかり通す」に指針偏向しました。あと「人に迷惑もかける」を同期間は自分に許す事にしました。
以前からの私を知ってる人は憤り、家族であっても露骨な変化に厳しい乖離(かいり)と拒否感を示した者が出ました。やむを得ません、自宅療養しか生きれないですから。自殺なんて考えません。人に迷惑かけて、いやがられても生きていきます。ざまあみろ。
人工的にしつらえたつもりの各種の性格が、今では自分でも「分裂症気味」に見受けるのです。受けのいい所作や失礼のなさは、社会通念上は利便の良いエチケットでしょうが、まあ人生が「後半」にさしかかり、それまで「我慢」で持ち堪えてこられたそれが、メッキがはがれるように「我慢しにくくなった」とたんに、はがれ落ちました。いや、はがし落としました。・・・もう、いいタイミングだったんです。十二分に我慢してきました。自分を壊すほどに、堪えてきてたんです。もういいじゃないですか。ろくろくありがとうも聞けずに放り出されましたけどね。あはは。
反面、「まだ、いつまでも、現役であろうという人」がポロポロと、人生の後半に入った矢先で、一線にあるような人でも「ぽっくり亡くなる」を幾例かニュースで聞き、知るようになるに至り、「やっぱりな」とも思ったんです。
自分以外の何かのために、自分が「一線の人」という「現役」さゆえに、社会通念の方を尊重し続ければ、人は「他人に見せない方の自分」の内情を疲弊させ続ける「辛抱比べの時間」を囲うのだなと確信しました。それはまさしく「死ぬまでそうしている」ができるからこそ、突然「昨日まで元気だったのに・・・」な人が亡くなるなんてことになるのです。
昔の日本でしたら、早々に家督を譲って、自らは引退して退き、なにかを生むでなく、悠々自適を見やる生き方を備えられました。翻って現代はどうでしょう?
年金をいただけるまでは現役であり続けさせられ(それは年々その期間を執行機関の意地悪でもらいにくくさせられてる)、運良くその時期まで生きながらえられても、いまさら人生を謳歌するイベントには自らを投入する気にはなれないでしょうし、家族なり収入なりの制約から、遠慮という名の「よけいな事はするな」という「迷惑かけないのがいい人」像であれと、半ば強要です。
そういうのは生きてた、っていうんじゃなく、生きてるだけにさせられた、という、捨て鉢です。私は早々にそれが嫌になりました。ふう、よかった。
体と心、どっちかが弱ったら、引退しな。年金なんか待つな。リタイア上等だぜ。
pandaheavenの☆持ってるといいもん☆
