「思考をするというのは、『自分が語ること』を聞くということですから、『存在しないもの』とのかかわりなしには、僕たちは思考することさえできない。『もう存在しないもの』を現在のうちに持ちこたえ、『まだ存在しないもの』を先取りする。そのふたつの仕事を同時に遂行することなしには、僕たちは会話することも思考することもできない。『存在しないもの』とのかかわりなしに、我々は人間であることができないのです。」
「最終講義」内田樹:著より抜粋
このごろ、このことをよく思うようになりました。
父を失ってからも、わたしはやっぱり「父ならこうする」ってよく母に語り掛けてますし、それは私の中の「父」の像なんでしょうけれど、母もそれに同意してくれる時には、そこに父は居るってただ想うんです。
判断のいくつかに迷うときに、自分の中で相談し助けになる父は「息づいて」いるのですから、『もう存在しないもの』扱いには寄せていけないのです。
引用元のエッセイは『存在しないもの』に居場所を見出してくれる思索の種をくれました。数字の「0」みたいですよね。脳の中で「考えてる自分」の「存在」すら「それを掴む」こともままならない。いいですね、なんだか自由度が上がった気がします。