
●平成9年5月28日(水)
引続き、アダルトチルドレンの本を読む。
本文
「アダルトチルドレンは完璧主義者である。
『ほどほど』が出来ない。オール・or・ナッ
シングの呪いに囚われている。オール(完璧
)でなければ意味も価値もない。アダルトチ
ルドレンは、『批判』に非常に敏感。「ダメ
」と言われたら、それは生きている価値がな
いと言われているに等しい。些細な注意事項
でも人格に対する否定と受け止めてしまう。
更に自信を失う。その思考が物事を中途放棄
で終わらせていく。」
この文章、私そのものである。
過去の日記を読んでも私に共通している。そ
して、物事を『白』か『黒』かという二項対
立で観る習慣がある。
例えば、平成7年の『教習指導員審査』に落
ち、何度も再審査を受ける間に、苦悩した末
、「もっと自由に生きても良いのでは?」と
考えるようになった。頑張り過ぎるのも良く
ない。確かに、「頑張る💪」のか「頑張らな
い😥」のかを問われれば、「頑張る💪」しか
ないだろう。
ただ、それは他人の眼鏡を通した評価から自
分の力を推定することではなく、自分で自分
の能力を推察して、その中で頑張ることが大
事となろう。しかし、とかく自分の能力を見
極めることは難しいものだ。そこで、その道
のプロと言われる人物に私の能力の評価を委
ねるのだが、特に、少しの苦労で克服した人
は、「努力」とか「忍耐」とか「熱心」とい
う言葉で自己啓発を他人に強い、それが出来
ないとダメな人間として相手を評価してしま
う。そもそも、他人にそんな力があるのだろ
うか?
私自身にその能力が欠けていたり、別の問題
に直面していれば、他人が「ああだこうだ(
批判含む)」と言っても、私の能力向上は見
込めない。他人は他人の事情(立場)で、私
という人間を評価する。
また、他人に私の内面治癒(アダルトチルド
レン)までの責任はないし、アダルトチルド
レンと認識していたとしても、「そこまで知
ったことか❗」というのが普通の感覚。世の
中はあくまで、一つのカリキュラムに則って
進行していく。個別の事情、精神的な問題は
自己責任として消化しながら、時勢に従って
乗り越えなければならない。
それを乗り越える力を身につけるには、やは
り自分を知るしかない。他人の眼鏡を通した
評価ではなく、自分で自分を評価するしか私
の将来はない。さもないと、私の性格上、他
人の都合で評価されたら唯々諾々とした人間
に成り果ててしまうだろう。
ここまで私は、教習生の技能教習で「みきわ
め」を担当し、何度も『否』にしてきた。他
人を評価するような人間ではないくせに、業
務としてやった。公平・公正を旨としてはい
るものの、そこには教習所の都合を優先して
いるのも事実である。同時に、『否』にした
時、些かの優越感がないとは言えないだろう
。そこには私自身の脳回路で、自己愛という
か、自出のコンプレックスの埋め合わせにそ
のみきわめを利用していないか、時々は自省
する必要がある。
それを「疚しい」と思考するか・しないかの
違いである。所詮は組織の人間でしかない。
組織というのは、利害関係の調整であろう。
その調整が上手い人が出世するのだろうが、
私にその能力はない。にもかかわらず毎日、
他人を指導している。