その150 今、思うこと(平成8年〔1996年〕11月6日) | 生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

人間とは何か?正解はあるのか?悪と共存する私の心は果たして救われるのか?自己を被写体として筆を綴った日記。ひしげる心、メンタル面の変化を見つめ、死後も何かを訴え続けたい。



●平成8年11月6日(水)
今日も自宅に帰り、自分自身について自問自
答した。

これまでも私は「命」というものを真剣に考
えてきたつもりである。しかし、未だに絶対
的な答えは見つからない。人それぞれに生命
観は違うだろう。

「命」を考えた時、間違いなく、今、生きて
いる人間よりも、既に死んだ人間の方が多い
ことは当たり前だが、何故か死んだ人間は、
次第に忘れられていく。過去の人間に、何の
力もない。

しかし、果たしてそうだろうか?

少なくとも、私はYS氏の呪縛によって、そ
の命を継続している。間違いなく、YS氏の
苦しみを私は感じず、その結果、自殺に追い
込んでしまった。

そのことで、ただでさえ、精神的な疾患でス
トレスに弱い母に、更なるストレスをかけて
しまったのだ。しかも、母がYS氏の縊死現
場の第1発見者である。その哀しみは、想像
を絶する。YS氏の自殺前、職場を数週間休
んでいた。最初はパチンコに行ったりしてい
たようだが、次第に深夜に帰宅したり、翌朝
に帰宅したこともあった。間違いなく、鬱病
だったと思う。

母から、何度か「Sさんがまだ帰って来ない
んだよ」と電話があったのを記憶している。
しかし、私は心配はするも、自殺意図がある
とは思わなかった。私の中学時代に父とYS
氏の激しい口論を知っているだけに、YS氏
を「父」として認識出来なかった。しかし、
間違いなくYS氏の支援のお陰で私は高校に
行くことが出来たのだ。同時に、運転免許を
取得するにも支援してくれた。

YS氏の存在なくして、今、私がこうして教
習所で働くことはなかったと言える。




YS氏は、次第に外出もしなくなり、一晩中
、布団に寝たままとなった。母との会話もな
くなった。仮に、私が同居していたら、また
違ったかも知れない。

人間は、精神(心)の生き物である。命は、
誰のものか?確かに自分の命だ。自分が引き
受けるたった一つのもの。自分の意思で生ま
れることは出来ないが、引き受けた命を、自
分で抹消することは可能なのだ。

生きる権利と死ぬ権利、その問題を常に考え
ながら私は生きている。「死んではいけない
」ということは理屈では簡単だ。しかし、そ
の言葉を他者に投げ掛けた瞬間に、その人に
も責任があると思うのだ。

「私はあの人に、『死んではいけない』と説
得はしました。でも死んでしまいました」と
いうのが殆んどだろう。結局、自殺は社会的
な自己責任でしかない。他者には「何の責任
もないですよ」という無責任な脳処理をする
。自分で自分を死刑にする。それが自殺だ。


YS氏を救えなかった私ではあるが、「死ぬ
な」と言うならば、その人が生きられる道筋
をつけてやらないと意味がない。今の私には
それが出来ない。だから、私には人を救う術
が0だ。私はYS氏の自殺の間接的な共犯で
ある。従って、私は生きながらにして、精神
的な無期懲役囚といえよう。

「死にたい」と思う人は、生きることが苦痛
なのである。自分の存在が重すぎるのだ。生
きる意味が見つからないのだ。今の私自身が
そうなのだが、しかし、必至に生きる努力を
している。それが野球観戦であったり、教習
の学科教案作りなのだ。

YS氏は、真面目な優しい人だった。父もま
た、飲み友達の娘さんが公園で花火をやって
いた時、突然死してしまい、その友達が先ず
父に知らせに来た。父はすぐに友達と病院に
駆けつけた。帰宅した父の眼は真っ赤になり
泣いていた。心の中は優しい人だったと思う
のだ。

人間は必ず死ぬ。例外はない。今年は、岡本
太郎、横山やすし、司馬遼太郎、金丸信、フ
ランキー堺、渥美清、小林昭二、遠藤周作が
亡くなった。

上記の人らは病気によるものだが、人間は必
ず死ぬ。今日、私が出会った人は、今日から
100年後に全て死んでいる。勿論、私もこ
の世にいない。否、全てではないかも知れな
い。駅ですれ違った若い母に抱かれた新生児
は100歳で生きている可能性もある。しか
し確率は低い。間違いなく実体として残って
いるのは、その場にホームがあり、線路が引
かれているくらいだろう。

誰もが永遠に生きることはない。寿命の中の
その時代に限り、一定時間内生きるだけなの
だ。その一定時間内に、私が何を考え、誰に
幸福を与え、不幸を与えてしまうか。限られ
た「縁」の中で私の人生が変化し、個別の体
験をする。

その体験は、人格を形成し、それが更に別の
「縁」を呼び起こす。そして、また新たな体
験・行動が過去となる。過去は背中に現れ
と言われる。現実という戦場で戦死が事件や
事故死で、切腹が自殺と言える。


人間は皆、体験することが異なる。その体験
の中で自己形成するしかない。平等に社会的
価値が人間にある訳でもない。差別という中
で、或いは、幸・不幸の捉え方は個人で違う
し、組織や集団が個人を幸にも不幸にもする
のだから、「自殺」もまた本人を幸にも不幸
にもするのではないか。

YS氏は、果たして自殺して、魂が楽になっ
たのだろうか?

当時、私は「神や仏はいない❗」と強く思っ
た。自ら身罷(みまか)る時、絶対的神への
信仰心がない我が国の国民は、やはり、個人
の人間としての限界を感じて自殺してしまう
だろう。人間として、どう人生を終えるの
か?どう終えるのが正しいのか?それを、他
人が評価して良いのか?

日だまりの中で発生するカゲロウ。小さな昆
虫だ。カゲロウは一日の命である。夏の蝉は
ひと夏の命だ。人間の命からしたら無に等し
い。しかし、私自身、カゲロウの一日分、蝉
のひと夏分の力も生きていないのではないか

産まれて、すぐに何らかの疾患で亡くなって
しまう命もある。昨日、出生届を区役所に出
し、今日は死亡届を提出する夫婦もいるだろ
う。それでも、人間としてこの空気を吸い、
光を感じたのである。その子はやはり全力で
子宮から出て来たと言える。世間の物差しで
計れば短い命だが、極めて濃厚で、超高速と
いうか、「光速」な人生で終えた命と言えよ
う。

そう思考するならば、生きた時間で、人間の
価値が決まるものではない。では、先日、先
輩のT教官から問われた「君はどういう使命
があるのか?」という質問の回答としては、
「人間総体的な命の知悉を行い、それでいて
悠揚に生きること」と言えよう。

結局、それぞれに与えられた「縁」の中で自
分を知り、生きるしかないのだろう。それが
人間の使命かも知れない。

(つづく)