その125 私の生きづらさ(平成8年9月) | 生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

人間とは何か?正解はあるのか?悪と共存する私の心は果たして救われるのか?自己を被写体として筆を綴った日記。ひしげる心、メンタル面の変化を見つめ、死後も何かを訴え続けたい。



●平成8年9月18日(水)
昨日の川上哲夫君(仮名)の教習を思い出し
、自分は何を偉そうに指導し、日記に書いて
いるのかと甚だ恥ずかしい気持ちになった。

私の指導・ガイダンスなんぞ、空疎な戯言で
ある。教習の仕事は人間を相手としているが
、そもそも私が他人にああだこうだと云える
立場なのか?私は教習所から、自分の担当教
習車を貸与され管理しているが、ほんの数年
前は、まさか自分が自動車免許を取得出来る
など考えてもいなかった。

当時、夜間高校の同級生が担任教師に内緒で
自動車通学をして、私が住む団地内の敷地に
白い日産セドリックを駐車していたことがあ
った。自動車を運転する彼を羨望の眼差しで
見ていた自分がいた。気後れする私には、ベ
ルやライトが破損し、前カゴが錆びた古い自
転車を漕いでいる方が一番しっくりする。

若干、左手に障害が残るため、運転免許を取
得することすら諦めていた自分が、普通免許
ばかりか、大型や牽引免許まで間違って取得
してしまった。通常ならば、インセンティブ
を醸成させ「人間、やれば出来る❗」と自信
に繋がるものだが、私の場合は、あまりそれ
を感じることがない。チャレンジし、それを
クリア出来ても、それは一過性の喜びであり
、私の内心にゆとりをもたらすものではなか
った。それは、将来への未来像(ビジョン)
が見えないからだろう。

この気持ちは、多分、野球選手や芸能人が有
名になり人気が出て、安定した仕事が保証さ
れたとしても、心の何処かで不安が波のよう
に押し寄せて来るような心境と似ている。人
気や収入、生活が直截(ちょくせつ)な心の
安定をもたらすものではない。何と表現すれ
ば良いか分からないが、要は心の中で、「終
わりが見えない」という強迫観念にも似た感
情だ。

禅の言葉に「一切唯心造(いっさいゆいしん
ぞう)」とあり、自分の心が現実を造り出し
ていると言う。その不安な現実が益々強くな
り、それがコンティニューされる。

更に、私は幼少から精神的にエイリエネーシ
ョン(孤立)していた。他人を求めているの
だが、ある部分から内心に入って来て欲しく
ない矛盾を抱えて生きている。

他人と一線を画く気持ちが強いため、私と親
しくなろうとする心ある人の親切さを裏切る
形になる。相手からすれば、「ちょっと変わ
った人だよね」、「何処か信用出来ないな」
というイメージを抱かせる。従って、職場で
も琴線に触れるような人間関係の構築には限
界を覚えるのだ。

そんなことで、今の私は「組織」で生きるに
は、極めて困難な人間だと言える。かと言っ
て、誰もが組織に属し、他人とコンタクトし
なければ人間の生活は成り立たない。にも拘
わらず、野球だ警察だ自衛隊だと、男臭い組
織・集団に憧れと希望を抱く自分が、似非的
な人生を送っているようで、些かなる厭世家
とならざる得ないのだ。

教習所の仕事も人間相手のものだ。自分を偽
れば、次第に生きづらさを感じるようになる
のは蓋し当然だろうが、偽らざる得ない自分
がいる。それは、私が偽ることで救われる人
がいるからだ。

また、私が所内教習よりも路上教習が好きな
のは、余計な話しをせずに仕事が出来るから
だろう。人間相手の仕事なので、どうしても
波長、相性があるのはやむ得ない。指導員に
もタイプがある。

教習に入る前、導入の部分で、あえて世間話
から入る要領の良い指導員がいる。私には到
底無理な芸当である。しかし、私自身が教習
生として教習所に通い、確かに世間話から入
ると、その後の運転がスムーズになるのは事
実である。このような指導員は、相手を知悉
して教習をしている。プロの指導員とはこう
した人を言う。他方、私はその場限りの雑駁
した教習指導で、必ずしも教習生に有効では
ない。

私が今、教習生に指導しているのは、翻って
教習生から指導を受けているようなものであ
る。教習することで自分の偽りを感じ、自分
の存在の無価値感を体感しているのだ。結局
、他人を通じてしか自分の姿を認識出来ない
のが人間である。偽りの中の自尊心では、到
底、このサバイバリズムの世の中で生きて行
くのは難しい。

(つづく)