昨日の続きを書かせてもらいたい。
高校を卒業したあとは「フーテン」生活をしていた、
「フーテン」といっても、渥美清の「寅さん」では無い。
どのように表現すれば良いのか難しいが、
多くはベトナム戦争に反対し、
日米安保条約へも反対していた。

そしてジャズ喫茶に居たり、当時は印鑑だけ押せばどの薬局でも簡単に睡眠薬が購入できたので、睡眠薬を服用し、ろれつが回らなくなる。その状態が「ラリる」という言葉になった。
もっとひどければ薬物まで使用する。
そうした人間たちが、ベトナム戦争反対や安保条約反対といっても言葉だけだ。

自分は何が出来るかを考え、結論は大学に行くことだと思った。そして大学に入学し、一年生は必須科目ばかりなので、皆一緒に授業を受ける。
そうした状況で、クラスメイトは、俺を信頼してくれるようになった。
前年には新宿で騒乱罪が適用された「国際反戦デー」を前にして、「俺たちはどうすべきなのか」を考えようと提案すると、ほぼ全員賛成してくれた。

クラスで話をする時間を作らなければならない。
哲学の教師に「クラス討論をしたいので、先生の時間を一度だけください」と頼んだ。哲学の教師は何も聞かず「わかった」と言ってくれた。

クラス討論で俺が纏めて皆が賛同してくれたことは、「ベトナム戦争や安保とは何かを考え、背伸びせず自分に出来ることを行っていこう」だった。
皆真剣に討論し、俺のまとめに賛同してくれた。

それでも、大学ではだめだと感じることが多かった。
俺が失ったものから立ち上がろうと、高校の時二人の詩人の詩を読みあさっていた。
鮎川信夫と長田弘。二人の詩人の作品を読むことで、少しだけ心が慰められたのだろう。
鮎川信夫の「死んだ男」「橋上の人」「アメリカ」。
長田弘の「われら新鮮な旅人」「クリストファーよ、ぼくたちは何処にいるのか」「ぼくたちの長い一日」。

これらの詩を何度も読み、自分を保とうとした。
そして大学も捨てようとしたとき、長田弘のエッセイと舞台シナリオを掲載した本を思い出した。
その中に「国家権力とは何かを知りたくて国家公務員となったが、余計わからなくなった」という男性のことを引用していた。彼は多分、キャリアとして公務員になったのだろう。ならば絶対に国家権力とは何かを知ることは出来ないだろう。
ならば俺は、最底辺の国家公務員となり、真下から上を見上げてやる。その時はっきりと見えるものがあるだろう。
そして初級国家公務員となった。

国家公務員は、試験など受けずに数年経てば自動的に係長となる。課長からそのことを告げられたとき、俺は係長となることを拒否した。
それ以来ずっと、最下級であっても管理職となることを拒否しつづけた。
心臓が壊れ、退職するまで。

大学病院でおこなった心臓の手術は失敗だった。
執刀した外科教授はそれを隠そうとし続けたが、内科の検診でそのことがはっきりとわかった。

その後、なんとか一人でリハビリをし、ボランティアで通っていた日本語教室で知り合った日系ブラジル人の男性と、知り合いの女性写真家と三人で子どもたちの問題を知るための季刊誌を発行しだした。
俺の体と、幾つかの問題で2010年に廃刊とした。
発刊した直後に、阪神淡路大震災が起こり、廃刊すると東日本大震災。不思議な因縁を感じている。阪神淡路大震災は、日系ブラジル人の彼がボランティアで行き、原稿を書いた。
東日本大震災は俺が取材しに行った。廃刊後の特別号として発行したかったが、幾つかの理由で断念するしか無かった。

そして今、俺はまだ此処に居る。

 

 

 

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