俺は立ち上がると、階段の隣のカウンターにいるウエイトレスの由美子の所へ行った。
「ショパンのポロネーズかけてよ」
「あら、今日はショスタコーヴィチじゃないの」
 怪訝な顔をして彼女は、一階のレジへ通じるインターホンを取った。毎日のようにこのクラシック喫茶に来ているので、彼女とはもう顔見知りになっている。
「久保田さんのリクエスト。ショパンのポロネーズですって」
 受話器に向かって告げている由美子に背を向けると、自分の席に戻った。二階席の中央は吹き抜けになっている。その吹き抜けの横のシートに座ると俺は、手摺越しに一階を見下ろした。リクエストしたショパンが終わったらでかけよう。足元に置いたザックには、黒いヘルメットと軍手が入っている。手摺に腕をかけ、頭をその上にもたせながら、ぼんやりそう考えた。この位置からは、一階の奥の壁に埋め込まれた大きなスピーカーが見える。スピーカーのコーン紙が前後に激しく動いているのさえ、見えるような気がする。何十人もの楽団員が、コーン紙を叩き続けている。バイオリンの弦や、トロンボーンの真鍮で。視界の中でスピーカーだけが明るく浮き出し、他の座席は黒く潰れていく。管楽器のけたたましい叫びがやむと、バイオリンが静かに鳴り出す。二つのスピーカーに挟まれた壁の中央から、黒いヘルメットの集団が現われて来る。無言のままスクラムを組み、前進して来る。ショパンのピアノはまだかからない。

 渋谷の駅前で俺は久子を見てしまった。久子があの男と一緒に歩いているのを見てしまった。二人だけではなかった。彼等のセクトの人間5~6人が一緒にいた。だが、そんなことは関係ないことだ。最後に二人であった日に、久子はクラス斗争委員会を日和見だと言った。俺の組織した斗争委員会を。寄せ集めの集団は革命の力にはなりはしないと。それも今の俺には関係ない。激しい言葉で俺を批判したが、そのことも、もう忘れた。俺は一つのことを知りたいだけだ。

 この喫茶店の中は、すべてのものが古びている。イスもテーブルも何もかもが。シートの角は破れている。あいた方の手でその破れた穴に指を入れる。意味もなく、中のスポンジをつまみ出す。指の間で潰れているものをテーブルに乗せる。それは小さな三角柱の形をしている。無意識のその作業を繰り返す。小さなクズがテーブルの上に並んでいく。円形や四角やさまざまな形に挽き千切られたスポンジが隊列をつくる。
「だめじゃない。そんなことして」
 由美子が横に来ていた。俺は慌ててシートの穴に入れていた指を抜いた。
「椅子を破らないで下さいね」
 彼女は、わざとらしい顰めっ面をした。だが俺の慌て方がよほどおかしかったのだろう、すぐ笑いだした。店内に流れている曲は、いつの間にかショパンに変わっている。このレコードが終わるまで、あと三十分はあるだろう。そうしたらでかけよう。
「もう俺のリクエストかかってたんだね」
 小さなかけらを一つずつ掌に乗せながら、由美子に言った。
「そうよ。悪いことばっかりして、音楽なんてちっとも聞いてないのね」
 彼女はまだ笑いながら返事をした。俺は抜き出して今は掌にのっているスポンジを又元の穴に入れる。
「そんなことしても、もう直らないわよ」
 由美子の言葉に咎めだての色はない。空になったコーヒーカップを手に取り、銀色の盆にのせている。彼女はこうして今日一日、コーヒーを運び、空のカップを下げる仕事をしているだろう。ヘルメットも催涙弾も、彼女の所へはやってこない。機動隊のジュラルミンの盾で打ちのめされることをひたすら望む男がいることも、由美子には理解できないだろう。

 久子は間違っていない。クラスの連中は、この季節に酔っているだけだ。次の季節が来れば、抵抗もなく社会へ埋没していくだろう。そんなことは解っている。渋谷で久子と一緒にいた男たちだって、そうなるかもしれない。俺だってそうだ。十年後は見えない。けれど今の俺に、そういったことも興味はない。一つだけだ。知りたいのは。

 手摺の上を小さな羽虫が俺の方へ向かって這って来る。腕の側まで来るとそれは止まった。触覚を盛んに動かし、進む方向を見定めようとしている。指で弾けば、一階へ落ちて行くだろう。落ちながら飛び立てるだろうか。羽のある虫が、人間の影に怯えながら這いまわるのは、あまりにも不自然だ。二本の触覚を俺の腕に向け、油虫は動きをいっさい止める。人間にじっと見られていることに虫は気付いた。巨大な影が何をしようとしているか、じっと探っている。飛び立てばいいのだ。巨大な影は飛ぶことができないのだから。しばらくして油虫は向きを変えた。手摺を回り、縦の桟をつたって床へ降りていく。コーヒーの受け皿があればよかった。この虫を掴まえ、受け皿にのせたらどうしたろう。カップの回りをいつまでもぐるぐる這い回るだろうか。皿の外側へ出ようとすれば、俺が手で壁をつくり止めてやる。皿だけが虫のとっての世界になるように。いくら進んでみても結局はスタートに戻ってしまう回廊だ。いつかそのうち、虫はカップを昇りだすかもしれない。カップの縁まで上がり、内側へ落ちる。飲み残しの茶色い液体に頭を突っ込み、虫は思い出す。羽のあったことを。どろりとしたコーヒーにつかり、もう羽が役にたたなくなってから。俺は靴の爪先を上げる。床にたどり着いた油虫がその下を通ろうとした時、爪先を素早く床へ戻す。グシャッとした感触が、脹脛から股まで伝わってくる。

 渋谷の駅前で、俺は久子を見てしまった。久子があの男といるのを見てしまった。だが、もう忘れた。

 手摺越しに、入り口を見てみる。そこから久子が入ってくるのを待っているかのように。真っ直ぐにレコード室の前を通り抜け、久子が階段を以前のように昇ってくるのを。スピーカーの前では黒いヘルメットの集団が輪をつくっている。ポロネーズを踊っている。ぐるぐるぐるぐる堂々巡りの輪舞をしている。

 俺が知りたいのは一つだけだ。俺と久子の未来に、革命はあったのか。俺の鉄パイプは誰に向かって振り下ろされるのか。

 もうすぐショパンは終わる。ポロネーズが終わったら、煙草を一本だけ吸って出かけよう。ゆっくりと白い煙を吐き出したら、ザックを肩にかけて。

 

 

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