俺のすぐ後ろでドラムが響いている。音は座っている椅子を、ガタガタ揺すぶり続ける。スピーカーの前では、人間の言葉は不能だ。あとはサックスがあればいい。いや、トランペットかもしれない。それが泣き出せば、テーブルの上に置かれたビール瓶はきっと弾ける。グラスも、灰皿も、煙草も、すべてがアルコール中毒患者になる。その時、正常と異常は離反を喪失する。
 銅細工の傘の下で白熱電球は、自分をどこ迄も保ち続けようと必死に光り続ける。光の下をウエイトレスが歩いてくる。溢れた吸い差しを振り撒きながら、灰皿を換えていく。テーブルの上にも、ビールのグラスにも、白い灰が舞い落ちてくる。
 前の席には、若い男が項垂れている。フォー・ビートのリズムを無視して。項垂れた首の前に本を開いて。死んでいるのかもしれない。本を読むふりをしながら、死んでいるのかもしれない。この店の中では、二つのことしか起こらない。フォー・ビートに殺されるか、それとも生き返るか。
 それが今でも正しい答えなら、十五年という時間の空白は存在しない。ジャズ喫茶の内側には、六十年代がある。あるいは俺が、タイムスリップをしたのか。鉄平石を積み上げた壁を手でなぞる。あの頃、俺は器用に鉄平石の一枚をはずした。いつも持ち歩いていたナイフで、コンクリートを少しずつ削り、しがみついていた石の板を取り除く。小さな穴に、俺は読み手のない手紙を入れる。素子への手紙を。
 指の先で石が微かに動く。親指と人差指でそいつを挟むと、上下に力を入れて動かす。ベースギターの呻きを聞きながら、石は壁から離れる。穴の中に、もう手紙はない。


"Oh, them rats is mean in my kitchen"


 嗄がれた黒人の声が俺に語りかけてくる。単調な旋律を繰り返しながら。
「ネズミがおいらのキッチンでなんかを企んでやがる」
 卑小さを忘れたドブネズミが、俺の周りにうようよいる。牙をむき、ペスト菌を撒き散らしながら、俺の隙を伺っている。ブルースが尿意を促す。おかしなものだ。昔の生理が今も残っている。ブルースを聞くと俺は、必ずトイレへ行った。目から鼻へ抜けた水を啜りながら小便をした。
―狂気せよ!お前の革命を!―
 自分の筆跡で書かれた落書きを見ながら、いつまでも小便をし続けた。まだ落書きは残っているのだろうか。手垢で黒ずんだドアを押し、便器に向かう。壁は白く塗り潰されている。アルコールの匂いが立ち込め、黄色い液体を流し去った後も、俺にまといついている。

 俺の隣の席に素子がいる。灰色のコートを着て。
「やっと来たね素子。待っていた。ずっと」
 俺は素子の上を通り抜け、自分の席に座る。もう弾け飛ぶ音はいらない。砥ぎ澄まされたジャズピアノが、俺の後頭部につきささる時を待つこともない。素子がいる。茶色い瞳で俺を見つめている。
 さあ、地下のジャズ喫茶を出て、さあ、二人で素敵な食事をしよう。白いテーブルクロスの上には、海の生物たちが行儀よく並んでいる。中央には白いワインが一壜。その横にバラが一輪と、ローソクが灯っている赤い小さなランタンがある。ワインで乾杯だ。お前が死ぬ間際まで行きたがっていたスペインの為に。スペイン料理と、バルセロナの石壁に穿たれた弾痕の為に。それから俺達は、他人の悪意を遮ってくれる壁を探そう。壁の内側で、俺はお前に口付けする。お前の赤い唇に。お前の白い乳房に。そして素子自身に。二人にしか解らない詩を唄いながら。

 ウエイトレスは来ない。素子の為には注文を取りに来ない。
「ビール。それともコーヒー」
 ウエイトレスが来ないなら、俺が聞いてやるよ、素子。まずコートを脱ぐといい。その重い灰色のコートを。たとえ、コートの下に何も着けていなくてもいいんだ。お前にはもう、滑らかな肌はないのだ。お前の裸身は、俺にしか見えない。振りかざした火炎瓶が頭上で割れ、炎がお前にまとわり付いた時から、お前の姿は消えた。俺以外の人間から。

 どうしたんだ素子。ビールは飲まないのかい。わかったよ。わかっているんだよ素子。もう出かけるさ。階段を昇り地上へ行くさ。
 でも、ちょっとだけ待ってくれ。せめてこのビールを飲み終わるまで。いまかかっている曲が終わるまで。もう少しだけ時間をくれ。

 

 

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