亜矢子は本の束を椅子代わりにした。赤いマニュキュアの指を立てて煙草を取り出すと、火をつけた。荷物はもう片付いていた。ビニール紐で束ねた本。毛布をカバーにして、麻のロープで縛った布団。積もった埃を拭きもしないで分解したスチールの本棚。ファンシーケースに机。それに小物や衣類を詰めたダンボールが二箱と鏡台。康次の持ち物は、それだけだった。鏡台と、机の中に長い間入れておいたものを除けば、みな捨ててもいい芥だった。あれ程大切にしてきた多くの本すらも、彼には邪魔なものに思えた。


「あんた、難しい本ばっか持ってんだね」
 口を少し尖らし、煙草の煙をはきながら亜矢子が言った。
「うちの店じゃ、まじめな顔して酒飲んでるけど、ビニ本位あるかと思ってたよ」
 立ち上がると彼女は、無造作に灰を窓の外へ落とした。
「わざわざ来てくれなくても良かったんだ」
 最近は手にすることもなかった本の束に、灰皿を置いて康次が言った。
「でもマスターが行ってやれって言うんだもん。それにあたしも見たかったんだ。あんたの部屋。もうお別れだもんね」
 窓のサッシで煙草を揉み消すと、彼女は康次を見つめた。
「あんたとマスター、どっか似てるよ」
 毎晩のように行っていたスナックのマスターは、彼と同じ歳だった。
「もう三十年以上も生きちまったもんな」
 それが口癖だった。
「この街を出るよ」康次が言った時、彼は「そう」と応えただけだった。

「店閉めた後でさ、マスター一人で飲んでたよ。明日手伝いに行ってやれよってあたしに言って」
 白いデコラ張りの鏡台を覗きながら、亜矢子は言葉を継いだ。写っている顔を少し歪ませてみてから、鏡の中に彼を探した。康次も鏡の中に彼女を見た。前にやはりこうして、鏡の中に女の顔を見ていたことがあった。この鏡台の持主だった女。部屋を出て行く時、女はそれを置いていった。
「毎日自分の姿を見ることね。歳をとっていく自分を見続けるのよ」
 女が残した言葉だ。
「この鏡台・・・似合わないよ」
 鏡の中の彼に亜矢子が言った。

 鏡の前を離れると亜矢子は、机の引出しに手を掛けた。引出しは開かなかった。不思議そうに、彼女は康次の方を振り向いた。
「ねえ、なんで鍵なんか掛けてあんの」
「爆弾が入ってるんだよ」
 笑い顔をつくって康次が答えた。
「ウッソォー」
「むかしダイナマイトを三本掻っ払らってね。それを隠してあるんだ」
 真顔に戻って康次が言った。

 東京近郊の採石現場で土方のアルバイトをしたのは、目的があったからだった。そこの倉庫は管理がずさんだった。盗み出す前には、それを何に使うかわかっていたはずだった。だが三本のダイナマイトを手にした時、彼は使い道を見失っている自分に気付いた。机の中で十年、ダイナマイトは眠っている。
「ねえ、あたしに呉んない。店に来るさ、中年の酔っ払い吹飛ばしたらおもしろいじゃん」
 亜矢子はダイナマイトの話に、恐怖を抱こうともしない。康次達を越える新しい世代がそこにいた。

「僕も吹き飛ばされるのかな」
「あんたのことは、ピストルで撃ってみたいな」
 彼女は人差指と親指を真っ直ぐのばすと、彼の額に向けた。
「バァーン」
 窓から入る西陽を受け、亜矢子はマニュキュアより赤く塗り潰されていた。窓の前に立っている彼は、黒ベタになっているだろう。
「もうそろそろお店に行かなきゃ」
 康次をちらっと見て、亜矢子はドアの所で靴を履きはじめた。
「ダイナマイト、僕が死んだ時には君にプレゼントするよ」
 彼女の横へ行き康次は言った。
「ありがとう。あんたやっぱり変わった人だね。・・・いけない。お餞別忘れてた」
 亜矢子は素早く両手を彼の首に回すと、唇を合わせてきた。亜矢子の唇は、彼が失くしてしまったものの味がした。

 街灯に灯が入った。仕事が終わった後、会社のトラックを持ってくると言った友人はまだ来ない。

 康次は、爆破すべきものが何かを、今は理解していた。

 

 

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