一昨日、夜の10時半に静岡で大きな地震があった。

先日横浜で経験した地震 よりは揺れが少なく短かったのだけど、来る来ると言われている東海地震と富士山噴火があるので、ちょっと怖かった。

すぐに実家に電話したけどつながらず、県外の友達からのメールは続々と入ってくるのに、こちらからは全然つながらず、1時間過ぎてやっとつながった。


昨日は横浜の整体学校に行くつもりだったのが電車が動かず予定がなくなり、要らない書類を整理したりした。

何が出来るんだろうなって、ずっと考えてる。

節電に関するメールが着たけれど、ふだんから主電源を切っているし、ひとりのときはよっぽど寒くなければ暖房を掛けずに厚着をする。

放射能対策の食事は、マクロビ食寄りの我が家の定番。


昨日の友達との電話で、スーパーにお米がほとんどないことを知った。

彼女は子供が三人いるので困っていて、翌日朝一番でスーパーに行くとのこと。

夜寄ってくれた友達も、普通にトイレットペーパー買おうと思ったのにないとのこと。

みんな、籠城するつもりなのか?

友達から、「被災地ではみんな分け合っているのに、よそではみんな奪い合ってる」とメールが着た。

今、人間の真価が問われている。

うちはストックの習慣がなくて、なくなりそうになったら買うのだけど、ちょうど地震前に玄米がなくなりそうになったので5キロ買っておいてよかった。

そうじゃなきゃ、今頃ご飯食べられなかったかも。

お米も、カップ麺も、ガソリンでさえも品切れ。

おむつが買えなくて困っている人もいる。

私は週に一度か多くて二度、スーパーでまとめ買いをしているので、今日久しぶりにスーパーに行ってガラガラのお米やカップ麺の陳列棚を見て驚いた。


人のために出来ること。

前に書いた 以外に、必要以上に買わないことも入るなと思った。

買いだめしないこと。

作りすぎて捨てないこと、そして腐らせないこと。

それと、ちょっと贅沢だと思うところにお金を落とすこと。

映画館やケーキ屋さん、レストラン。

この時期に不謹慎なと思われるところで働いている人にも、家族があり、生活がある。

こんな大変な時に、自分のための洋服なんて買ってよいのかななんて罪悪感を感じるかもしれないけれど、お金を落とさないと流通しないから、だれでも必要なところじゃなくて、必要としないところにお金を落とすというのも大事なことなんんじゃないのかな。

そして誰もが必要なものは節約する。

必要な時以外に車を使わなかったら、必要な人にガソリンが回せる。

今日は乗る用事があったので、ひざ掛けをして暖房を入れないで運転した。(後で夫に聞いたら、冷房やエアコンはガソリンを食うけど、ただの暖房は関係ないのだって)

石油ストーブも、夫が帰るまで我慢してみた。

少しずつ、やれることをやっていこう。


母親が駅で、県立大学生の抱える募金箱にお金を入れようとしたら、小銭がなかったのでお札を入れたら、高額だったからか後ろから追いかけてきて、

「ここのアドレスで検索してくださればお金がどこに行ったかわかります。」

と言われて、

「そんなパソコン持ってないし、学生さんだから信用してるわ。」

と言ったそうだけど、みなが何かやらなきゃって思っているんだよね。


浜岡原発 も、今まで怖いけど仕方ないなあと思っていたけれど、動かなきゃダメなんだってやすらんさん からコメントをいただいて思った。

起こってからだと遅い。

浜岡原発が爆発すると、東京まで行くと言われている。

今福島原発で、東電の社員の方や、自衛隊や警察の方が、危険も顧みず、寝ないで必死に働いている。

その人たちがまた同じような思いをしないためにも、また同じ危険にあう人が出ないためにも、ちゃんと考えなければいけないと思った。

テレビを観ても新聞を読んでも、みんな頑張っていて、それがどんなに危険で大変なことかと思うと、胸が苦しくなる。

被災者の人たちが人を気遣ったり、自分に何が出来るかを考えて一生懸命動いているのを見ると、自分が無力だと思えて涙が止まらなくなるし、そんなテレビ観ながらご飯を食べるのも罪悪感を覚えるけれど、でも良くなった日本をイメージして、生きていることに感謝して自分の出来ることをしていかなくてはと思う。


今日いらしたお客様と、「地震がなにをもたらせてくれる?」と、それぞれ引いたカードは、「ハーモニー」と「融合」だった。

今まで大切だったもの、価値のあるもの、安全だったものが、根底からひっくり返されている。

有るものは壊れる、自然は征服できない。

お金があっても物がなくては買えないし、繋がらなければ携帯はなんの役にも立たない、原発も安全なものではなくなった。

すべてが壊れて残るのは、人の思いや絆。

愛や感謝や祈りなどの目に見えない想いが、ちゃんと人の心に届くということ。

自然に感謝し調和すること。

もっと安全で自然な代替エネルギーが出てくるかもしれない。

資本主義社会になって久しく、ひとはひとりでは生きられないということに気づくきっかけを、人間はこんなに大きな原因を作らなければわからないほど愚かになってしまったのかもしれない。



私の大好きな田口ランディさんのブログに、

「テレビで繰り返し繰り返し流される悲惨な映像は、非常に強い吸引力を持ちます(とかく最近のメディアは人々の不安をあおるのが特徴です)。人によっては催眠にかけられたようにテレビの前から動けなくなる人もいるでしょう。こうした映像に何度も何度も自分をさらすことは、何の役にも立ちません」

というテレビの害の話が書かれていたので、リンクさせていただきます

私もずっと胸がザワザワして頭の後ろが重くて、ちょっとおかしくなりそうだったのは、このせいだったのかなと思った。

観ないと目をそむけているようで罪悪感が起こったりもするのだけど、今生かされている人が元気でやれることをしないといけないものね。