昨日お墓参りしたとき、枯れた花を片付けながら誰も来てくれてないんだなあとまたちょっと悲しくなって、ないものよりもあるものに感謝しなければいけないのに、私もまだまだだなあと思った。


夜、お風呂に入っているときに読んだ


〈NJセレクト〉 ひろさちやと読む 歎異抄/ひろさちや
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で「執着を捨てる」ということが書いてあり、またまた頭を殴られたパンチ!


今朝いただいたメールにも、龍安寺のつくばいの写真に

吾唯知足』(われ、ただ足るを知る)

という、の4文字が刻まれていて

”不満に思わず満足する心を持ちなさい”という戒めの言葉だそうです。」

という言葉が添えられていて、

「私の昨日の思いを読まれましたかガーン

ってくらいのタイムリーなお言葉だった手紙



そうなのよね。

義母のことは、これでもう大丈夫と思うと、「これでもかっメラメラ」ってくらいに落ち着いたと思ったらいろいろ問題が起こるのだけど、その都度誰かが現れて助けてくれる。

仏壇を持ってきて朝夕お世話をさせていただき、毎月お墓参りしている私たちにご先祖様が力を貸してくださっているなあと、しみじみ思う。

それだけでじゅうぶん。

と毎回思いつつ、修行の足りない私はついついあるものよりもないものに目を向けてしまうしょぼん

そのつど、仏様や天使が形を変えて諭してくれたり導いてくれるのアップ

で、時には殴られるパンチ!



歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に書かれた日本 の仏教書

作者は、親鸞 に師事した唯円 とされる。

鎌倉時代は、混沌とした今の世に似ているらしい。

私はこの時代に巫女や尼として生きていたらしい。


実家が浄土真宗で、子供のころは東本願寺に行っても親鸞聖人のことなんてまったく知らなくて、祖父が亡くなり大阪に住んでいた祖母と一緒に暮らすようになって、法事でお坊さんが自分の宗派の開祖のことをちゃんと認識しなさいと言われて、それから意識するようになった。

と言っても、曾祖父とともに祖父はクリスチャンなのだけど、子供は誰も洗礼を受けていなかったので母の実家の宗教でお葬式をしてしまい、祖母は「お経よんでもおじいちゃんは喜ばないから、讃美歌歌ったほうがまし」と言って、いちども仏壇に手を合わせたことがなかった。


妻帯して子供を持ったり、髪を伸ばしたりと、ものすごく庶民に近いところにいて、鎌倉時代という自然災害や飢饉で苦しめられ国が混乱していた時代に、「なみあみだぶつ」と唱えるだけで極楽浄土に行けるという言葉は、この世の闇にいる人々の一筋の光、生きる縁(よすが)になったのではないかと思う。

ので、どんなことが書いてあるのか気になって・・・



善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。


      善人が往生できるのだから、悪人が往生できるのは当たり前だ。


差別」というのは、仏教語で「しゃべつ」と読む。

別段区別する必要のないものを区別するのが”差別(しゃべつ)”

男と女がそうだ。

区別する必要がないところで区別すればそれが差別になり「男尊女卑」だ、「男女同権」だとこだわりができる。

しかし区別する必要があれば、しっかりと区別せねばならない。

善と悪がそうだ。

善と悪を差別して、それにこだわる必要がない。

宗教の世界では、そんな善―悪の差別、こだわりは不必要だとわかれば、それでよいのである。