流れ星見ました。
四つ。
寒い中、外に出て、上向いて、ポケーっと眺めて。
流れ星を見ている時間よりも待っている時間のうほうが圧倒的に長いわけで。
でも、待つことなしには流れ星を見ることはできないわけで。
ほんの一瞬のために待つ。待つ。待つ。。。
人の人生の縮図のような気がしますね。
流れ星見ました。
四つ。
寒い中、外に出て、上向いて、ポケーっと眺めて。
流れ星を見ている時間よりも待っている時間のうほうが圧倒的に長いわけで。
でも、待つことなしには流れ星を見ることはできないわけで。
ほんの一瞬のために待つ。待つ。待つ。。。
人の人生の縮図のような気がしますね。
夜久しぶりにジョギングした。
一月以上ぶり。
昨日冬用のランニングウェアを買ったし、今日は体調も良かったし。
走ってたら茂みのほうからガサガサっって音がして、
何何何何!!!て思って構えたら、
猫でした。
枝に絡まって身動きとれず、とりあえず茂みから出たいみたいな感じで、私のことを怖がることなく近づいてきて必死でもがいてた。
猫はもっと運動神経よくて、スマートなイメージだったのに。
いろんな猫いますね。緊急事態は誰にとっても 我を忘れてもがいてしまうんですね。
久しぶりのジョギング、おもしろかった。
でも、茂みからガサガサ音がしたときの自分のビックリした様子はあまり人に見られたくないほどのリアクションしてたと思う。恥ずかし~い。
今日、映画見ました。
まずまず満足かな。
友達に教えてもらって、ホームページ見て、かなり良さ気な雰囲気やったから
かなり期待してたけど。思ってたよりは落ちるかなって感じでした。
人と人のつながり、家族のつながり。ありふれた日常のなかに当たり前のようにそれはそこにあり、それに自分が気づき、どう捉えるか、どう接するかで感じ方や生き方は変わってくるのかな。
主人公は親に捨てられ、親の愛情を受けずに大人になった。そんな主人公が成り行きで借金取りが父親に、謝金取りの偽妻が母親に、母親の姉の娘が妹?になったような一時的な家族に。赤の他人で構成される家族。しかしそんな関係だが主人公は本物の家族のような感覚を感じた。
父親は借金取り、母親は父親の偽妻と本来なら家族とは絶対に言えないような無茶な関係。偽妻の姉の妹に対して嘘を通すために築かれた偽家族。しかし、そこには人と人のつながりがあり、それを本人たちがどう感じるかでそれを良くも悪くも、温かくも虚しくも感じるだろう。
主人公は子供のときに親に捨てられ、義理の親に育てられたが家族という感覚を与えてもらえなかった。血のつながらない家族であったのだが。大人になってまた同じように血のつながらない家族の関係の中に身を置くが、この家族には情があり家族の良さを感じる。皮肉だ。
同じ血のつながらない家族。皮肉だ。では何がこんな違いを生むんだろう。
家族という感覚には、血がつながっているということはあまり関係ないのだろうか。
お互いの意識の仕方で変わってくるんだろうか。
血のつながった家族でも家族としての感覚を感じられない人もいるかもしれない。
自分はもっと家族を、家族との関係を大事にするべきだと思った。
劇中であった
「幸せな時間は気づかない間にそこにもう存在しており、不幸な時間は急に思わぬところからやってくる」
てな感じの言葉、本当にそうやなって思う。自分自身が安定した時間を過ごせているとき、それはもう幸せなんやろうな。
自分はきっと幸せだ。
今日はあるミステリーの内容をダンスで表現したものを見た。
その中で喧嘩するシーンが出てくるんだけど(たぶん喧嘩のはず。本当のとこはわかんない。)
喧嘩をダンスで表現する、これが意外とおもしろい。
何がおもしろいって喧嘩するのに互いに協力しているんだから滑稽だ。
ダンスで喧嘩するって、喧嘩の様子を変な視点で捉えているように思う。
喧嘩するってことは殴りあう相手が必要である。実際の喧嘩はこぶしをぶつけることで相手は吹っ飛ぶ。このパンチ→吹っ飛ぶって動作が自分と喧嘩相手との協力のもとに成り立っているって捉え方をすると喧嘩が新鮮に、また相手の大事さ必要さを感じることができて滑稽だ。
実は一月ほど前にも喧嘩するダンスを見たんだけど、そのときも思ったけど人と人の思いをぶつける喧嘩のダンスに魅力を感じた。喧嘩するってなかなかないことだけど、エネルギー一杯に人にぶつかるってことで見ごたえのあるものだと思う。
あと、今日見終わった後に一緒に見た友達と少し話したんだけど
コンテンポラリーダンスってやっぱりわかりにくいみたいだ。
ダンスについて知識のある人ならダンスを見るだけでおもしろい
話の内容を知っている人なら話をどうダンスで表現しているかを見ればおもしろい
どちらも知らない人にとっては理解する苦労を必要とするようだ。
友達は初めて見るスポーツ観戦のようだと言っていた。
やはりコンテンポラリーダンスにはもっとわかりやすさが必要なんじゃないかということを再認識した。
まあ私は全くの素人なんでこんなこと言いたくなってしまうのかもしれないのだけれど。
ブログをやりはじめて、書く側になって初めて気づくことがある。
自分のブログは読みにくいってこと。
みなさんのブログを拝見すると、見てもらうために
わかりやすく、まるでプレゼンするかのように書いてるなーって思った。(ちょっと自分は考え方が堅い気が・・・)
また本当に気軽にみんな書いてるから楽しそうやな。
mixiなんかでも読んでてその人の人柄が現れてるようなのはおもしろいって思うしね。
ということで、かちかちな考えの私はもっと親しみを持ってもらえるように
もっと気軽になんでも書くようにしようかなっと。
また、そんな中で自分の考えたことをたまに真剣に書けたらそれでいいや。
昨日友達のダンス公演を見に行った。世間ではコンテンポラリーダンスと呼ばれるものだ。野外でエレキギターとドラムによる演奏、またそれにあわせて読み語りがされ、おそらく話の内容にあったダンス、表現が行われたのだと思う。
はっきり言って話の内容は全くわからなく、途中けつが痛くてなってきて見るのが苦しかったな。表現されている内容がわからないと見ているほうは人のすごい動きやリズム感あふれる動きを楽しんだりするしかないのじゃないかな。だからヒップホップやブレイキングは単純に楽しめるダンスなのかなと思った。
コンテンポラリーダンスは見る人、それを感じる人の感性に拠る所が大きい気がする。そのためコンテンポラリーダンスにはおもしろさ、素晴らしさに無限大の可能性があるとも言えるが、わかりにくい要素はとっつきにくさを感じさせてしまうのかと思う。
建築の世界などではユニバーサルデザインという障害者やお年寄りだ けでなく、誰もが使いやすいデザインをするものが叫ばれているが、ダンスでもユニバーサルダンスという誰にもそれなりに楽しめるダンスを構築する必要があるのではないかと感じた。もしかしたらそういうものがもうすでにあるかもしれないが。また自分の感性が貧相すぎるため自分が楽しめないのは自分の責任なのかもしれない。
とにかくもっとコンテンポラリーダンスを楽しみたいなと思った。
前々からやろうかなと思っていたブログをとうとうはじめました。
最近時間が経つのがはやくて、自分の思ったことや感じたことを垂れ流すような状態が続いてたのです。
インプットしたことをアウトプットする嘔吐、吐き出す場が欲しいと思ってて、まさにこのブログって最適な場であると思います。
続けていかないと意味ないので極力何か書くようにします。