教会の伝統の中で「イエスのみ心」に捧げられている6月 (ミニ動画) | 教皇庁立国際マリアン・アカデミーPAMI マリア論オンライン講座☆日本語

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聖母の騎士 Sr. 岡 立子による
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第41回 マリアのミニ動画(2024年6月)

 

みなさん、こんにちは、Sr.ルカ 岡立子です。

マリアのミニ動画、41回目です。

 

この動画は6月に配信されます。

教会の伝統の中で「イエスのみ心」に捧げられている6月、

そして、イエスのみ心への崇敬の傍らに、

教会の民間信心(popular piety)は、

いつもイエスの母である「マリアのみ心」をも見つめてきました。

 

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教会の民間信心(popular piety)とは何でしょうか?

それは、典礼(liturgy)とどのように関係があるのでしょうか?

 

この問いかけは、簡単に答えられるものではありません。

民間信心は、まさに、キリストの民(教会)の、信仰生活の現場の中で、

つまり、固有の文化、信仰感覚、言語…の中で、長い年月をかけて形成されてきたからです。

そして、今も、形成され続けています。

 

民間信心は、普遍的(ユニバーサル)な「典礼」の傍らで生まれ、「典礼」を生きる助けとなってきました。

 

民間信心と典礼との、正しい関係を示すために、

バチカンの、典礼と秘跡に関する部門(典礼秘跡省)は、2001年に指針を出しました。

288項から成る、長い文書です。(『民間信心と典礼に関する指針(仮題)』)

 

まだ、日本語の公式文書は出ていませんが、聖座のHPに英語訳があります。

Congregation for Divine worship and the Discipline of the Sacraments

Directory on Popular piety and the Liturgy. Principles and guidelines (Vatican City, 2001).

https://www.vatican.va/roman_curia/congregations/ccdds/documents/rc_con_ccdds_doc_20020513_vers-direttorio_en.html

 

今は、自動翻訳機など便利なツールがありますから、

興味がある方、また、教会の中でのさまざまな崇敬に積極的に参加している方は、

その評価、刷新のために、読んでみることをお勧めします。

 

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「指針」の構造は、

導入部分で、用語、原則などを説明し、

第一部は、典礼と民間信心の歴史的背景、それについての教会の教え、評価と刷新のための神学的考察、

第二部は、民間信心の、典礼との調和のためのガイドラインを示しています。

 

第二部のガイドラインは、さらに、

典礼暦と民間信心の関係(待降節、降誕節、四旬節、聖週間、復活節、年間)を述べた後、

特に、主の母マリアへの崇敬、聖人たちへの崇敬、死者のための祈り、巡礼所と巡礼に、それぞれ一章ずつ捧げています。

 

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私たちの今月のテーマについて、指針は、

166項から173項で、「イエスのみ心」への崇敬について、

174項から179項で、「マリアのみ心」への崇敬について述べています。

 

つまり、このテーマの上にかなり長く留まっています。

今回は、「イエスのみ心」についての項目の一部を見てみましょう。

 

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イエスのみ心の崇敬の歴史的背景を、指針は短くまとめています。

 

聖霊降臨後の第二主日に続く金曜日に、教会は、イエスの最も聖なるみ心の祭日を祝う。

典礼で祝うほかに、キリストのみ心を対象として、他の多くの崇敬(pietà)の表現がある。

実際、救い主のみ心への崇敬(devozione)は、教会の崇敬(pietà ecclesiale)の中で、

最も愛され、最も広まった表現の一つであったし、今もそうであることに疑いはない。(166項)

 

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同時に、指針は、イエスの「心」と言うとき、それは、

イエスの中に現れた神の神秘全体を示していることを思い起こしています。

実際、聖書用語の中で、「心」は、単に感情、思いだけでなく、存在全体を示すものです。

これは、マリアの「心」について考えるうえでも大切なことでしょう。

 

指針の言葉を聞きましょう。

 

「キリストのみ心(Cuore di Cristo)」という表現は、

聖書に照らされて理解するなら、

キリストの神秘そのもの、キリストの存在全体、

その最も内奥で本質的な核心において考察されたキリストご自身を意味する。(166項)

 

「最も内奥で本質的な核心において考察されたキリストご自身」…

つまり、「キリストのみ心」と言うとき、それは、キリストから心を切り取ってその部分だけを示しているのではなく、

キリストが誰であるか、という、キリストの存在そのものの神秘を意味しているのです。

 

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では、キリストは誰でしょうか?

「指針」は述べています。

 

すなわち、神の御子、

造られたものではない知恵(sapienza increata)、

無限の愛(carità infinita)、

人類全体のための救いと聖化の起源。(166項)

 

これらがすべて、「キリストのみ心」が意味していることなのです。

ですから、「指針」は、次のように言うことが出来ます。

 

「キリストのみ心」とは、

受肉したみ言葉、救い主であるキリストそのものである。(166項)

 

それはまさに、キリストが、

 

「霊」において、内在的に、

無限の愛――神と人間の愛――をもって、

御父に、またご自分の兄弟である人間に向かって差し出されている(166項)

 

からです。

 

「神と人間の愛」をもって。なぜなら、イエス・キリストは、真の神でありながら、真の人間でもあるからです。

イエスのみ心は、神と人間の愛をもって、無限に、具体的に、現実的に愛することが出来ます。

 

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イエスのみ心の崇敬は、ですから、感傷的なものではなく、

聖書の上にしっかりと土台を据えたものであり、

人間の心をもって、ご自分のすべてを他者に差し出したイエスへの崇敬、

そのイエスに従うようにと招くものなのです。

 

第二バチカン公会議『現代世界憲章』は、

キリストが人間の心をもって愛した、と述べています。

 

神の子は受肉によって、ある意味で自分をすべての人間と一致させた[…]。

彼は人間の手で働き、人間の知性をもって考え、

人間の意志に従って行動し、人間の心をもって愛した

彼は処女(おとめ)マリアから生まれ、真にわれわれの一人となり、

罪を除いては、すべてにおいてわれわれと同じようであった。(『現代世界憲章』22項)。

 

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典礼秘跡省の「指針」は続けています。

 

御父と一つであるイエスは(ヨハネ10・30参照)、

弟子たちに、ご自分との深い交わりの中に生き、

行いの規範として、ご自身とその言葉を帯びるよう招き、

ご自分を「心の柔和で謙遜な」先生(マタイ11・29)として啓示する。(117項)

 

「わたしの心は柔和で、謙遜である」とイエスは言われます。そして、「わたしに学びなさい」と。

人間の心をもって父である神のみ心を行ったイエス。

人間の心をもって愛したイエス。

その愛の頂点である十字架の上で、イエスの「心」、脇腹が刺し貫かれます。

 

それは、イエスの存在すべてが刺し貫かれ、

その刺し貫かれた傷を通して、私たちに、新しい命、永遠の命への道、扉が開かれた、と言うことが出来るでしょう。

 

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ある意味で、キリストのみ心への崇敬は、預言的言葉、福音の言葉によれば、

すべての時代のキリスト者が、「突き刺された方」(ヨハネ19・37;ゼカリヤ12・10参照)に向けるまなざしを、

典礼的言語に翻訳したものであると言える。

――「突き刺された方」とは、わき腹を槍で突き刺されたキリスト(ヨハネ19・34参照)であり、

そこから血と水、「全教会の驚くべき秘跡」の象徴が流れ出た――(167項)

 

教会の教父たちは、信徒たちに、

キリストのわき腹の開かれた扉を通って、キリストの神秘の中に入り込むよう招きました。

 

「指針」は、聖アウグスチヌスの言葉を引用しています。

 

キリストは門である。[キリストの神秘への]入口はアクセス可能である。

キリストのわき腹が槍で開かれたとき、それはあなたにとっても開かれた。

 

そこから何が出てきたかを思い起こしなさい。

十字架につけられ死んだ主のわき腹から、槍で開かれたとき、血と水が流れ出た。

水の中にあなたの清めがあり、血の中にあなたのあがないがある。(167項参照)

 

***

今日は、典礼秘跡省の、民間信心と典礼に関する指針が、

イエスのみ心について考察していることの一部を見ました。

 

真の神でありながら、真の人であるイエス・キリストが、

神と人間の愛をもって、私たちを無限に愛した。

その愛の極みである十字架上の死。

蒔かれて死んだ種から、新しい命が生まれるように、

十字架上で死んだイエスの脇腹から、

私たちを赦し、あがない、生かす、血と水が流れ出ました。

その血と水によって、私たちは、真に「神の子ら」、つまり、神の命を生きる者とされました。

 

イエスのみ心への崇敬は、ですから、

決して感傷的なものではなく、

聖書と教会の伝統に土台を置いたもの、

私たちを、イエス・キリストの神秘の中にさらに深く導き入れるものです。

 

ここまで聞いてくださって、ありがとうございました!