「福音と矛盾する態度」 | 教皇庁立国際マリアン・アカデミーPAMI マリア論オンライン講座☆日本語

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聖母の騎士 Sr. 岡 立子による
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「福音と矛盾する態度」

アンドレア・トルニエッリ氏

『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』社説(2022年7月26日)

(試訳)

 

すでに、この旅の最初の出会い(集い)、

カナダの地での教皇フランシスコの最初の言葉から、

教皇のメッセージの核心、

まだ歩行が困難であるにも関わらず、彼をここまで連れて来た理由が示される。

 

マスクワシス(Maskwacis)の先住民の人々の墓地、

七つの悲しみの聖母教会で沈黙のうちに祈った後、

教皇は、ベア・パーク・パウワウ・グラウンド(Bear Park Pow-Wow Grounds)で、

全国から集まった先住民指導者の代表団の前で語った。

 

「今日、私がここにいるのは、

あなた方の間での、この悔悛(痛悔)の巡礼の最初の一歩が、

赦しを願い、私の深い悲しみを語るものだからです。

 

多くのキリスト者が、

先住民の人々を抑圧した権力者たちの植民主義的メンタリティーを

支持したことに対して

私は赦しを願います。私は深く悲しんでいます。

 

中でも、カトリック教会や修道会の多くのメンバーが、

無関心をも含めた態度をもって、

当時の政府による文化の破壊と、

寄宿学校制度を頂点とする強制的な同化政策に協力したことに対して、

私は赦しを願います」。

 

それらは、政府が望み融資した学校であったが、

多くはキリスト教会によって運営されていた。

そして、家族から引き離された多くの子どもたちが、そこで、

「身体的、言語的、心理的、精神的虐待」を受けた。

多くが、衛生状態や病気のためにそこで亡くなった。

 

***

ローマ司教(教皇)の言葉には、

それを長いこと待っていた先住民の人々によって受け入れられた

曖昧さを許さない判断がある。

 

「キリスト教信仰が私たちに教えているのは、

これはイエス・キリストの福音と矛盾する(相容れない)

破壊的な過ちであったということです」。

 

実際の植民地時代にも、

その後、植民地主義的メンタリティーが、

寄宿学校のような政策や考え方に影響を与え続けた時代にも、

福音的な道を理解することは可能であった。

 

その時代にあっても、歴史的、文化的な条件にも関わらず、

先住民の人々の伝統を絶滅させるのではなく受け入れなければならないこと、

信仰は、先住民のさまざまな文化の中で提案されるべきもので、

それを破壊して押し付けるものではないことを議論し、理解することは可能だった。

 

***

キリスト者たちが何世紀にもわたって責任を取るべき暴力は、

すべて、すでに、イエスの証しによって裁かれている。

イエスは、憎むのではなく愛することを教え、

罪のない犠牲者として十字架上で無力のうちに留まった。

歴史上のすべての犠牲者たちの痛みを共有しながら。

 

ゆえに、文化破壊や同化政策が行われていた時代においても、

異なる態度は可能だった。

パラグアイのreducciones(イエズス会宣教師たち)によって証しされた

先住民文化を尊重した宣教や、

中国のマテオ・リッチ神父の 態度などの古代の例を考えれば十分だろう。

 

ゆえに、赦しを願うこと、

それを、教皇が私たちに示しているように、

謙虚さと耳を傾ける態度で行うのは正ことである。

カナダの先住民の人々の言葉が示しているように、

癒すためには数世紀では十分ではない傷があることを知りながら。

 

***

確かに、この地で何世紀にもわたって、

多くの宣教師たちが黙々と果たしてきた善を見ないのは間違いである。

しかし、起こったことに対する、唯一の真のキリスト教的答えは、

区別や歴史的分析ではない。

 

その時の痛みを今も自分の肉の中に生きている人、

どこに埋葬されているかも分からないまま

愛する人々を失った人を前にして出来ることは、

ただ沈黙のうちに留まることだけである。

祈り、耳を傾け、抱きしめ、赦しを願いながら。

車いすの高齢の教皇が私たちに教えているように。