和食器に魅せられて ①
「目で食べる」
日本で大きな皿に料理を盛って、もてなすようになったのは、桃山時代から江戸時代の初期頃だと考えられています。大皿から箸で直接口に運ぶことはしませんから、各自に取り分けるための小皿も発達しました。円形のものだけでなく、花や鳥、貝殻、扇、楽器など、様々な形のものが作られました。大皿や小皿がどのように使われていたのか、どんな料理を盛り付けていたのか、想像力を働かせながら、ご覧いただけると幸いです。江戸時代から正岡屋に残っていたお皿です。
懐かしの品 正岡屋の皿
①染付線画き中皿手描きー直径22.7㎝
染付とは、素地の上に呉須と呼ばれる青色顔料で文様を描き、その上に透明な釉薬を施して焼き上げた白地に青色の絵付けのことです。細かい線描きで、緻密な模様がかかれています。
器の裏
目跡・めあととは、焼く時の土台のあと。めあとが少ないほど古いとされる。
②玩銘 染付隅切角皿、八角大皿手書きー直径24㎝
江戸時代はやくための技術があまり発展していなかったので、「ゆがみ」があるのです。それが古伊万里の味わいそのもので、皿の横から見た時にゆがみがあれば確認できます。草花図
器の裏
裏を返すと蔓をデザインしたもの。蔓(つる)は生命力が強く四方八方どこまでも伸びていきます。唐草模様は「長寿・繁栄」を象徴する縁起のいい模様として多用されてきました。
③玩銘 染付隅切角皿、八角大皿手書きー24.5㎝
江戸時代に肥前(佐賀・長崎県)で焼かれた磁器が伊万里焼(古伊万里)です。江戸時代初め1610年代頃から江戸時代終わり頃(明治期を含むことがあります)までにつくられました。帆船木花図
器の裏
食器は使うほどに味がでてくる。暮らしの中で陶磁器を使用。昭和の中頃までは、特に皿類は珍しいから飾っておくということはありませんでした。結婚式などの祝い事、お正月・お祭りなどの時に、料理を盛り付けて、接待客にお出ししていました。昔は正岡屋も、たくさんのお客様をお招きして食事会をしていたと両親から聞いています。
④染付隅切角皿、八角大皿手書きー直径26.5㎝
和食器の寸法は号数で表すことが多く、1号が約3㎝つまり約1寸です。8寸以上23~24㎝以上が「大皿」です。40㎝を超えますと「飾り皿」が多くなります。
器の裏
大皿に盛られた刺身や鮨を食べる時、取分け小・中皿や醤油皿(醤油を入れる皿)が必要です。色の濃淡や形が一つ一つ微妙に異なる器。裏の文様も色々です。
⑤染付四方隅切大皿手書きー直径30㎝
「大皿」が大いに用いられた最初の時期は江戸前期の17世紀中頃です。限られた階層が催した宴会のための必需品であったと考えられます。次の時期は江戸時代後期の18世紀末から19世紀にかけ「大皿」は大名屋敷のほか、旅篭屋などの飲食の場で盛んに用いられました。牡丹唐草文
器の裏
一枚一枚趣向を凝らして制作されています。江戸時代の人々もその時々で手にできる多様な大皿を見て楽しんでいたのではないでしょうか。
⑥染付角皿大皿手書きー直径31.8㎝
描かれているいる山水図や花鳥図には、それぞれ意味があるようですが、自宅に保管しているだけで、私自身も詳しい者ではありませんが、見る者に四季の情緒を感じさせる作品であるように感じます。
器の裏
裏文様も色々な意味があるようです。銘もあり精巧に施されています。職人の技を感じます。
⑦色絵角皿大皿手書きー直径31.5㎝
明治以降におこなわれるようになりました絵柄を転写する絵付けの方法があります。この技術の生まれる以前の陶器は染付(手描き)での絵付けが主流だった為、当時の陶器はとても高価で大切に扱っていましたが、今では、われると修理することなく、破棄することが多くなっています。
器の裏
長い年月、お祭りやパーティなどに使用しているとかけたり、割れたりしますので処分したお皿の方が多く、残っているお皿はまれです。
⑧染付牡丹大皿手書きー直径32.5㎝
古伊万里(オールドイマリ)は、国内の磁器生産ではトップとも言える有田焼の一種で、主に江戸時代に生産された有田焼の周辺の三川内焼・波佐見焼なども含めた総称として呼ばれています。
器の裏
唐草文様と目跡(めあと)とよばれる点状の跡5つ。古くから焼き物作りが行われてきた日本!全国各地に様々な陶磁器の産地が点在しています。
⑨取り分け小皿・鉢・豆皿・醤油皿
牡丹の花の小皿
鉢
小皿と醤油皿
茄子の絵柄の醤油皿・漬物皿
富士山の絵柄の豆皿
正岡屋に残されている江戸時代から使用していた皿です。大量消費時代になると、皿は割れるとゴミ箱行きで廃棄され、現在は少しだけ残っております。江戸のもったいない!のブログでお見せした、「焼継」で修理されたお皿は今も残っていますが、令和になると、割れたり・かけたりしたお皿の跡がわからないように修復できる技術を持っている、凄腕職人が現れたようです。