② 伊豫岡八幡宮 2022
今も息づき、歴史を語る。古い町家たち
伊豫岡八幡神社の社殿に通じる五十七段の石段の玉垣に、江戸時代を生きた先人たちの名が寄進柱に刻まれています。地元の社会に根付いた人達が、その存在も忘れ去られ、石に刻まれた字も、剥落に耐える日々が続いて見えづらくなり、記憶から消え去るのは世の流れかもしれないけれど、我が町や村の産業や経済の発展に、人力を尽くした人々の営みの続きの中で、私たちは今に活かされているのだと考えます。江戸時代から令和まで、たくさんの人々がこの石段を登ってお参りをしています。
懐かしの神社 郷土の貴重な文化財
①寄進柱(江戸時代に氏子より寄進された玉垣があります。)
自然林に囲まれた古墳群の中に立つ伊豫岡八幡宮の石段は、文政元戌寅年 三月吉日に寄進。石段は「御難を去る」といわれる五十七段です。
①寄進柱湊町 梶野重右(左)衛門(かじの じゅうえもん)
不動産・質・諸物品・為替等の商いをしていました。
借用証文→ 綿御役所様へ 銀札一貫目也 嘉永申元7月 借主港町 正岡屋 加利老 梶野
②寄進柱唐川屋九左衛門(からかわや くざえもん)・九兵衛〈きゅうべえ)
唐川屋というような家号(唐川・三谷など、部落名)の家は、村家といって、その村と代官所の取次をしていました。その村の人が郡中に来た時は、そこで泊まりました。造り酒屋・郵便切手売処・瀬戸物問屋等を営んでいました。
役人中 証文相済→正岡屋七郎右衛門様へ 間違ったことはご了承なさらぬよう、とりはかられるように早々、以上 九左衛門
覚書→唐川屋から正岡屋へ 糠 壱斗 右の通り受け取り申し候
③寄進柱和泉屋(いずみや)治兵衛・和泉屋佐十郎・和泉屋昌助
大坂(阪)の砥石問屋 和泉屋治兵衛が手広く商いを行っていた。当初、和泉屋の郡中湊町の出店を預かる責任者は和泉屋佐十郎で、続いて出店の責任者になったのは吾川村の組頭だった沖弥三右衛門(後昌助と号す)が出店を預かる。
文→正岡屋七郎右衛門様へ 一筆啓上仕り候、右の段ご勘弁成し候、用事ばかり 和泉屋昌助 明治期に至るまで砥石商を営みました。和泉屋昌助は、付近の子供達を集めて寺子屋などをする学識者でもありました。
砥部焼の歴史→大洲藩に出入りしていた大坂(阪)の砥石問屋・和泉屋治兵衛は、長崎・天草で切り出される砥石のぐずが磁器の原料になることを知り、大洲藩に伊予砥の屑石を使って磁器を生産することを進言しました。
④寄進柱吾川屋四郎兵衛(あがわや しろべえ)
呉服反物、吾川屋呉服店を開き手広く商いをしていました。呉服商
覚書→正岡屋から吾川屋様へ 4月までに元利共御返済をお願いします。まずは御報告致します。
⑤寄進柱栗田與三郎(くりた よさぶろう)
覚書→正岡から栗田様へ 右の通りたしかに受け取り借用しました。2月に元利共とどこおりなく返済致しますので、後日のため借用一礼
「はんこ」 江戸時代は幅広い層に、文字だけでなく印鑑も普及した時代といえそうです。
⑥寄進柱正岡屋七郎右衛門(まさおかや しちろううえもん)
問屋・船主・酒造業・竹材商・煙草等あらゆるものを一手に引き受けていました。
仕切→正岡屋七郎右衛門殿・八幡丸甚右衛門殿へ 銀二百四拾八匁弐分 右の通り代銀為替にて重ねて差引可仕候、以上 伊豫屋文蔵
商業が活発になるにつれ、登場したのが「引札(ひきふだ)」現代でいうチラシです。引き札を使った告知を行い、販売促進につなげました。 大坂(阪)地向 よろず請負処 いかようなことでもご相談に応じます。 正岡商店
⑦寄進柱稱(称)名寺(しょうみょうじ)
稱(称)名寺は、伊豫岡八幡神社の別当寺ということで、歴史は古く鎌倉時代の古文書が今もあるほどです。
⑧寄進柱真木藤治郎(まき とうじろう)
安政の大地震関係史料『塩屋記録』ー安政元年11月4日朝四ッ時地震、明けて5日夕七ッ時前より前代未聞の大地震。全国的にみて被害甚大の様子。真木藤治郎殿の惨状が書かれています。
覚→正岡屋七郎右衛門様へ 四匁六厘 過 右の通り相済し候 真木藤治郎 印は郡中 八百萬(ぐんちゅう やおよろずどころ)
⑨寄進柱坂本屋嘉右衛門(さかもとや かうえもん)
坂本屋は湊町の船持水主で、坂本屋太助の甥の嘉右衛門が後を継いで福吉丸、幸吉丸の船主になりました。享和~文化年間に砥部焼を船に載せて大坂に運んでいました。
郡中湊町は、町家衆によってそれぞれの分野で発展の強固な素地(そじ)を造り上げ、日々の暮らしにかかる酒造、油屋、米屋、醤油屋、呉服屋、砥石屋など様々な店が軒を連ねていました。玉垣に江戸時代に活躍した人達の名前が刻まれており、歴史の息吹を感じさせてくれます。皆さまも、天気の良い日に神社を巡り、玉垣観察としゃれこんでみませんか。