「隣人」

 

 

「菜美、今日ね、沙都ちゃんを病院に連れてくから・・・ご飯だけ炊いといてくれるかしら・・・」

 お母さんがねぼけた私に構わず言っている。こういう声の時は決まって沙都ちゃんの様子がおかしいって言う。

私は沙都ちゃんがおかしいはずはないと思う。昨夜沙都ちゃんが一晩眠れなかったのは何となく分かる。沙都ちゃんはさっきから綺麗な声で歌っている。どこもおかしくなんかない。ねぼけた私にだって、ちゃんとにっこりしてくれたばかりだ。

あくびをしながら私は早く沙都ちゃんの姿をもっとよく見たいと思って、すっきりしない瞼を指でこすった。

沙都ちゃんは外出する2時間前にはすっかり身支度を済ませるひとだから、私が寝ている間にそっとお洒落をしていたに違いない。こんな団地サイズの四畳半に一緒に居るというのに、沙都ちゃんはまるで夢の世界へと私を連れて行ってくれる。私がぼんやりしている朝、沙都ちゃんが一番素敵に見える。私が嫌な中学へ行く原動力みたいになっている。

私は決して沙都ちゃんに話し掛けたりしない。沙都ちゃんには私の声なんか全然必要ないということは誰も言わなくたって分かる。沙都ちゃんの世界はいつも完璧なのだから、私はうっとりと見とれたりさっきから聴こえる歌声に聴き惚れたりするだけでいい。目の前の沙都ちゃんはまた私ににっこりしてくれている。

すんなりと伸びやかな細過ぎない手足が白いワンピースからのぞいている。沙都ちゃんの肌はワンピースとは違う白い色で、この間中学の美術の時間に見たドガの踊り子の肌の光る白い色に似ている気がする。

今日はとても丁寧に髪が編んであって口紅も少しだけ塗ってある。五つ年上の沙都ちゃんはもうすぐ十八だから、上品な小さく整った唇に、ほんの少し紅をさすととっても似合う。私は完璧な沙都ちゃんが歌ったり小さく笑ったり、どちらにしても綺麗な声のままお母さんに呼ばれて部屋を出て行くのを見て満足した。今日も学校へ行かなければと身支度を始めた。

私は不器用で髪をお下げに結うのさえ怪しい。何度もやり直す手はさっぱり進まないけれども、沙都ちゃんとの想い出ならすらすらと浮かぶ。

私には母方の従姉妹が沢山居過ぎて、すぐには数え切れない程だ。沙都ちゃんが十歳の時、お母さんのすぐ上のお姉さん、つまりは私の伯母さんが家に来てすすり泣いているのが聞こえた。伯母さんはその後間もなく離婚した。私は沙都ちゃんの名前がどうして急に上原から田辺に変わったのと、しつこくお母さんに訊いた。上原沙都の方が田辺沙都より優美に響くと今も思うけれど仕方がない。

沙都ちゃんより綺麗な従姉妹は居ない。沙都ちゃんは頭が良くて歌が上手で声も綺麗でいつも優しかったから、私には雲の上のひとだった。そんな沙都ちゃんがまさか私の家に来て家族になるなんて、最初は信じられない程嬉しかった。

けれども、私も幼児ではないし、喜んだりしてはいけないとすぐに感情を引っ込めた。沙都ちゃんのお母さんは四十五歳の若さで亡くなってしまい、住むところがなくなった沙都ちゃんを一番伯母さんと仲良しだったお母さんが引き取ることにしたのだった。「大人のはなし、大人のはなし」と言われて、私はいつもよく分からないまま煙に巻かれてきた。それ以上のことは知らない。

ただ、お母さんの頭の中は泣く時も怒る時もいつも全て行き着くところは、「沙都ちゃんは病気だから」という場所だということだけがはっきりしている。

「菜美!早く朝食を済ましてちょうだい。急いで片付けないと・・・」

私は鏡の中の乱れたお下げ髪に向かって、あかんべえをしてからダイニング・キッチンに駆け込んだ。テーブルの上の紅茶に砂糖をたっぷり入れて、私は立ったまま乱暴にスプーンでカップをかき混ぜていた。

「またあなたは。お行儀悪いわねえ・・・」

私は無言で椅子をキイイと音をさせないように出来るだけそっと引いて腰掛けた。

スプーンを回す手にもブレーキをかけてカチャカチャとうるさく音を立てるのを止めにした。ダイニング・キッチンと隣の六畳間を隔てる襖はいつも開け放してある。ダイニング・キッチンといっても、本当はキッチンと言った方がぴったり来る狭さだし、六畳間も本当は一軒家の四畳半くらいの広さしかないように思う。

それが団地サイズの我が家の悲しさだとお母さんは時々こぼす。その度に、お父さんは贅沢言うなという目付きで新聞から顔を上げてお母さんをぎょろりと睨む。お父さんは無口で仕事熱心な九州男児だ。熊谷という私の野性的な苗字通りの濃い顔立ちをしている。

「我が家の悲しさ」が本当に「団地サイズ」だけなら、十二歳の私だって贅沢な話しだとは思う。学校へ行けば、沙都ちゃんみたいにお父さんとお母さんが離婚してしまった母子家庭の友達だって居る。沙都ちゃんみたいな身の上のひとが目の前に居るから、私は自分が悲しいなんて思うことが一番贅沢なのだと思ったりする。

私がキイイとかカチャカチャとか音をさせないように気をつけるのは、お母さんが悲しむからでも私がおしとやかになりたいからでもない。本当にしとやかで静かな沙都ちゃんが不快に思ったら困るからだ。私は沙都ちゃんに嫌われたくない。今朝も沙都ちゃんがにっこりしてくれたから私はそれだけで安心できる。

トーストをかじりながら、私は隣の六畳間に居る沙都ちゃんのへ目をしのばせた。 沙都ちゃんは和食の朝食を既に済ませて、長くてしなやかな指を湯のみ茶碗に慎重にあてて日本茶をそっと飲んでいる。いつも感心するのは、私の苦手な正座を、沙都ちゃんは「もう十年はこうしています」みたいに、いつもきちんと長い時間、背筋を伸ばして立派にこなしていることだ。じゃあ、沙都ちゃんは八歳の時からこんなにもおしとやかだったということになる。

お母さんが本当に悲しくてやるせない目付きで私を見ているのに気付き、お母さんが悲痛な声を上げる寸前に「ごちそうさま」と言って私は急いで立ち上がった。

音を立てまいとしていたのにうっかり「ガタッ」と大きい音を立ててしまい、私は慌てて沙都ちゃんを見た。切れ長の大きい瞳は確かに力が入って少しの間沙都ちゃんは辛そうな面持ちになった。私は無言のまま自分の一重瞼の目に、強く、強く、ありったけの力を注ぎ入れて伝えた。

「うるさくしてごめんね、沙都ちゃん・・・」

沙都ちゃんはすぐににっこりしてくれた。

私は沙都ちゃんの肌の白さが翳ってしまっている気がして暫く気が気ではなかったけれど、遅刻寸前なので沙都ちゃんににっこりと笑顔を返してダイニング・ キッチンを出るしかなかった。

 

そして私は玄関のドアを開けて余所の空間に入って行く。ほぼ同時に隣の家のドアが開いた。私は慌ててぎこちない声を上げた。

「おはようございます!」

「おはよう、菜美ちゃん!」

明るくて高いトーンの声が五階まで続く薄暗い吹き抜けに響く。

私たちの隣の家は月村さんという二年近く前に引っ越して来られた方々だ。ご夫婦と私より二歳年下の男の子とで、うちとは左右対称の間取りの家に三人で住んでいる。ご夫婦は共働きでいつも忙しく働いておられる。奥様の出勤時刻が同じ時間帯なので、こんな場面によく出くわすのだ。お二人は明るくて聡明な方々で、何というのか私のような子供にまで礼儀正しい。そしてお二人ともとても良く似ている。表情とか、雰囲気とかがそっくりだ。

男の子とは挨拶をほんの少し交わしたくらいでしゃべったことがまだない。無口な感じの子だけれど、小五ならばこんな子は多いと思う。私は特に親しくなろうとは思っていなかった。名前は表札に書いてあった。琉音、月村琉音、ツキムラルネ。変わった名前だと思うけれども響きがカッコいい。

私達は3号棟の3DKの間取りで暮らしている。3号棟のちょうど真向かいは8号棟に当たる。そちらは3LKという少し異なる間取りで南側には広い芝生がある。その芝生の青さが私に、心地よさを与えてくれている。五月に入ったばかりだが、歩くとちょっと汗が出る。教室には「 おはよう」と言ってから入るけれども、かなり粗野な言い方になる。沙都ちゃんに嫌われる心配がないからだ。沙都ちゃんはおかしくなんてない。けれども、お母さんが心配になるのならば、私には少しだけ分かることがある。沙都ちゃんは私へとにっこりするのだけれども、眼差しは本当のところは私を見ていない。沙都ちゃんは今恋をしている最中だから、私を通してでもお相手ににっこりするようになってしまう、ただそれだけのことだ。

私はまだ真剣に恋をしたことがない。クラスにちょっと気になる男子が居ることは居る。クラスで二番目か三番目位に成績の良い新見一宏という男子だ。ちょっとだけ大人びて教室の隅っこから冷たい視線をクラスメイトに投げているような人だ。私は女子と話しながらちらりちらりと新見君を見ている。どうしてこんなにも見てしまうのか自分でも不思議に思うし、おかしいと思われても仕方ないと感じている。もしも真剣に恋をしたなら、一体私はどうなってしまうのだろうか。 

沙都ちゃんをずっと不憫に思ってきたお母さんは、その沙都ちゃんの危うげな様子を見る毎に堪らなく心配になるのだろう。沙都ちゃんは今、恋をしているのだ、真剣に。

白いワンピースと薄いピンクの口紅。その沙都ちゃんの隣のお母さんは、モスグリーンのブラウスに千鳥柄のスカート。お化粧は殆どしていない。私はその二人がどんなところに入って行くのかまだ知らない。ーー

今日、美術クラブでの短いミーティングが終わったらすぐに家に帰ってご飯を炊こう。夕食時には食器の触れ合う音をレースのテーブルクロスの下へ沈み込ませよう。不器用な指先の筋肉に微妙な力を加えよう。そうして私は、おしとやかなひとに変わっていく。

 

六月半ばに近づき、梅雨入りした。

私は努力の甲斐あって、静かな物腰が身についてきた。お母さんから叱られることも殆どなくなった。沙都ちゃんは食欲があまりないせいか、痩せてしまった。それでも白い肌は透き通り、ますます美しくなっていく。お母さんに連れられて二週に一度、診療所に通っている。

月村さんご夫妻は勤め先が違うのだが、なぜか帰宅する際はいつも二人一緒だ。帰宅時間はとても遅い。殆どが22時台で、24時になることもある。沙都ちゃんが寝入ってから、こっそりスタンドにカーディガンを被せてラジオを聴き始めた私は 、漸く気付くようになった。小声であっても、ドア付近の音は私と沙都ちゃんの部屋には筒抜けなのだ。お母さんによると、お二人で或る政治活動をなさっているのだそうだ。ツキムラルネくんはその間ずっとひとりで過ごしていることになる 。所謂鍵っ子なのだ。

私達A組の教室は、一階の職員室の並びにある。新見一宏、新見君は時々というか頻繁に四室先にある職員室にひとりで入って行く。そういうクラスメイトを私は他に見たことがない。一体何の用事なのだろう。私にとって、この二人の男の子はひっそりとしていて、何となく硝子越しにそっと覗いているような気持ちになる。しかも硝子には始終雨が打ち付けていて滴り落ちる雫は尽きることがないのだ。ーー

 

七月最初の日のことだった。梅雨はまだ明けていない。それでもこの日の照り付ける日差しはギラギラとしていて異様に暴力的だった。

今日水曜日は沙都ちゃんの通院日で、家には18時頃まで誰も居ない。

そして水曜日は美術クラブの活動がないので、私は15時には帰宅する。

中学までは徒歩七分。 近過ぎて呆気ない。そんな時、私はよく団地内をぐるぐる歩き回る。中学生になってまでそんな自分でいるのはいくらなんでも恥ずかしい。お母さんに叱られてしまいそうだ。

もっと小さい頃は団地の階段を五階まで駆け上がり、最後の踊り場で踵を返して駆け降りることを何十回も繰り返した。愚かなことばかりしていた。

今日は異様な暑さの中を途中まで歩き回り、急に気分が悪くなってきた。喉がカラカラに渇く。もう家に入ろうと思ったその時、8号棟の前にある芝生の中に、男の子がしゃがみ込んでいるのに気付いた。

ツキムラくんだ。鍵がないのだ。こんなことは初めてだ。もう15時を回ったが、今日の暴力的な日差しは衰えを知らない。よりによって何でこんな日になのだろう。

突然、去年小学校の校内放送でショックを受けた記憶がよみがえった。

~『光化学スモッグ注意報発令、光化学スモッグ注意報発令、皆さん校舎に避難してください』 ーパニック状態で次々と気分が悪くなった女生徒が机をベッドにして横たわるー ~

私は急いで家に入って行った。冷蔵庫を開ける。乳酸菌飲料を取り出す。コップを食器棚から取り出して希釈を間違えないように水道水で薄める。気分が悪い。胸がドキドキする。早く氷!あっしまった。ストローなんてうちは使わないのだ、どうしよう。引き出しの中のスプーンとフォークをガチャガチャと音を立てて次々にひっくり返し乱暴に探りだす。あった!早く洗おう。

洗い上がったストローを掴んで上から覗き込んだ時、私はどうしようもなく悲しくなった。唇を噛みしめながら、コップに突き刺すように、その我が家にはたった一本しかなかったストローを差し入れた。

こぼさないように気をつけながら玄関のドアを開けた。そして私はとてもおかしな格好で、ストローが入ったコップを両手で抱えながらツキムラくんのほうへ歩いて行った。

「これ、飲んで!」

ツキムラくんは真面目な面持ちで立ち上がり、コップを受け取った。

「ありがとうございます」

そう静かに言ってから、乳酸菌飲料を飲み始めた。すぐにコップは空になった。ツキムラくんはまた真面目な表情でコップを私に返した。

突然私は気まずさが溢れ出し、ああとかうんとか言いながらコップを受け取り、不自然なタイミングで背を向けて、ふらふらと家に戻って行った。うちに入って休んでいかない?とか気分悪くない?大丈夫?とか気の利いたことが言えたなら良かったけれども、そのあとはどうすれば良いのか、中学生が身につけるべき社交術が私には皆無だったのだ。

どうして私は愚かな日々を送ってしまったのかと悲しみに暮れながら、もしかしたらツキムラくんよりも真っ赤な顔になっていたかもしれない。

玄関で靴を脱ぎコップを床に置いてから、暫くそこにしゃがみ込んでいた。心拍数が整ってくる。私は立ち上がり窓から芝生の中に居たツキムラくんを捜したが、姿はなかった。心配になった。

ツキムラくんはどこへ行ったのか、どこで過ごしているのか、もしかしたら鍵がないのは初めてではなく、慣れっこになっていたのかも分からない。22時までなんてぞっとする。私はおとなりさんだというのに何も知らないままだったのだ。何と不自然で何と薄情なのだろうか。

 

次の日、ツキムラくんは元気な様子で小学校に登校した。私はそれを窓から見届けて、沙都ちゃんを起こさないように静かにドアを開けて学校に向かった。 

その時から私には、喉元までこみ上げてくるような「ツキムラくんに言いたかったひとこと」が生まれたのだった。ーー

そのひとことの所有者はツキムラくんだった。それでもそのひとことは、私がいつも喉元の辺りに抱えている。ツキムラくんが隣に住んでいるから、そのひとことは身が安全なのだ。そう思ってみると、私との間の一枚の硝子の板を隔てて、ツキムラくんがあちら側に存在することが実感できる。

私は一階の一戸に住む。狭いスペースの踊り場がある階段を五階まで昇るまでに、余所の家は九戸ある。

全て頑丈な鉄の板で閉ざされているように思えた。巨大なエネルギーを鉄の板が塞いでいることが感じ取れて恐ろしかった。小さい頃、五階まで駆け上がり踵を返して駆け降りる時、私はその恐怖感がどこから押し寄せてくるのか分からなかった。おそらく見当違いな認識に駈られて、その鉄の板を運動靴で必死になって破壊しようとしていたのではないだろうか。そして私はいつしかそれを諦めた。私などには解決できないということだけは分かったからだ。

今頃になって、そのうちの一戸だけは私に、エネルギーの一端を見せてくれている、そんな幸せを覚えていた。ツキムラくんと私の間に何かがあるとするならば、それは少なくとも頑丈な鉄の板ではなくて硝子の板なのだ。

 

けれどもある時から、そのようなささやかな幸せにも翳りが生じた。

沙都ちゃんと二人で静かに寄り添って暮らす四畳半の部屋には、今まで外部の音は玄関付近の音しか聞こえなかった。

ある夜、月村さんの家からと思える音楽が聞こえてきた。22時頃のことだった。最初はラジオの音かと思ったが、繰り返し同じ曲が流れるので、レコードの音だと分かった。ある時ボリュームが上がり、爆音のように重低音が鳴り響く。暫くすると音量はもとに戻る。また暫くするとボリュームが上がる。そんなことが繰り返された。

沙都ちゃんは蒲団から出て小さい鏡台に向かい、髪をブラシでとき始めた。私は囁き声で言った。

「沙都ちゃん、大丈夫だからね。

ステレオの故障だよ、きっと。もう寝ようね」

そう声を掛けると、沙都ちゃんは静かに立ち上がり、蒲団へ戻った。そして私が眠る振りをするとすぐに寝息を立て始めた。

私は気が気ではなくて起きていた。

30分ほどして月村さんご夫妻が帰って来た時から音楽はピタリと止んだ。月村さん宅の話し声は何も聞こえなかった。

同じようなことが五日ほど続いた。沙都ちゃんは少し怯えたような険しい眼差しになることが増えていった。それでも水曜日になるときちんとお洒落をして診療所へお母さんに連れられて行った。

ただ、私には不安を覚えることが生じた。

それは、沙都ちゃんがつける口紅の色が薄いピンクから赤い色に変わったことだった。

その赤い口紅が、沙都ちゃんの険しい眼差しとは思い詰めた眼差しなのだと気付かせたのだった。

 

私が通う中学には校舎の外側にちょっと変わった螺旋階段がある。外から四階の図書室に入るためだけの階段だ。そこまでただぐるぐると昇るだけだ。私が小さい頃ここに来ていたら、どんな風に感じただろうか。

その螺旋階段の老朽化は以前から指摘されていた。夏休みのうちに撤去されることになったと担任の佐川先生が言った。校舎の中にも図書室へ行ける階段が設置されているので特に問題はなさそうだ。撤去に先立ち、図書室の螺旋階段側のドアは鍵で閉ざされた。

錆びが酷くて全くお洒落でなくなっていた螺旋階段だ。私は入学以来一度も使ったことがない。見上げてみても階段が上のほうでどうなっているのかも分からない。けれども私は一度だけ、螺旋階段から降りて来る新見君を遠くから目にしたことがある。本を抱えているように見えた。

本が好きで成績の良い新見君ならば、この螺旋階段を使って頻繁に図書室にひとりで入って行ったのではないだろうか、私はそんな想いを巡らせていた。

そして、新見君を遠くに見つけた同じ木陰で傘を差し、誰も居ない雨に濡れる螺旋階段を眺めていた。

天気予報によると、今年は例年になく梅雨明けが遅くなるとのことだ。あと二週間で終業式だ。この錆びで覆われた螺旋階段とのお別れが近づいているのだ。

 

次の水曜日に事件は起きた。

私は、沙都ちゃんがまた白いワンピースを着て、赤い口紅をつけて美しくなっていくのを見ていた。沙都ちゃんは思い詰めた表情をしていた。沙都ちゃんはいつもの診療所へ、私はいつもの学校へ。

美術クラブの活動がないので15時頃帰宅した。お母さんから電話がかかってきた。

「菜美?お母さんだけど」

「うん、どうしたの?」

「沙都ちゃん、入院することになったの。 今日お母さん、準備に一度帰ってからすぐ病院に戻るわ。あなた、お父さんの分もご飯用意してくれるかしら?」

「え、どうしたの、急に。沙都ちゃんは?」

「お母さんすぐ帰るからね」

電話は切れた。その日のうちに沙都ちゃんは入院してしまった。お母さんは言葉少なではあるが、私には多少説明してくれた。けれども、お父さんには殆ど何も伝えようとはしなかった。

湿度が上がっていく。硝子戸を雨が叩きつけ始めた。

― 「診察室で体調が急に悪くなって」 ―沙都ちゃんは告白したのだ、先生に。

硝子の板に雫が滴り落ちる。止むことがない。ーーー 

 

狭い空間で半年近くひっそりと一緒に暮らした沙都ちゃんが居ない。今まで沙都ちゃんで埋まっていた私の心はバランスを失っていく。心の中は空っぽになるだけではなくて、未知の何かが次々と蠢くのだ。恋をするということ、命懸けで人を好きになるということ。沙都ちゃんに纏わる生々しいシーンが頭の中に描かれる。けれどもお相手の男性を私は知らないのだから、ぽっかりと空いた空白があるのだ、もともと。欠けの大き過ぎる空想は止めよう。もう止めよう。

なぜだか私は、新見君を更に意識するようになってしまった。空虚さと未知の鼓動の高まりから、更に求めずにいられなくなってしまった。

休み時間、女子達の会話に参加している振りをして、新見君をちらりちらりと見ていた。

教室の後ろの扉を担任の佐川先生が開けた。先生は開けた扉から一歩も動かずに「新見、ちょっと」 と新見君を呼んだ。新見君が出て行く。女子達も気付いて新見君が出て行くのを目で追っている。

私はとても嫌な予感に襲われ、居ても立ってもいられなくなった。「トイレ」と言って女子達から離れ、教室を出た。

新見君が職員室に入って行く。さすがに立ち聞きはできない。職員室の隣の教室の廊下の壁に凭れて、新見君を待つことにした。

やがて新見君はひとりで職員室から出てきた。廊下の壁に凭れている私に気付いてこちらを不思議そうに見ている。私は急ぎ足で近寄り、勇気を出して声を掛けた。

「新見君、何か困っているんじゃないの?大丈夫?」

「熊谷か、ああそうだよ。困ってるんだ。」

新見君はあっさりと答えた。

「中間テスト、カンニングしたんだ。バレた」

「停学かもな」

新見君がカンニング?あんな成績の良い人がカンニング? 私は言葉が出てこなくなった。

「じゃな」

新見君は背を向けて早足で歩き出した。暫く動けないままでいたが、新見君の背中が廊下を曲がって見えなくなる寸前で走り出し追いかけて行った。

新見君は雨の降る校庭に出て、あの螺旋階段に向かっている。昇る気なのだ、あの螺旋階段を。けれど昇り詰めても、図書室にはもう入れない。嫌だ、嫌だ。どんなに階段を昇っても、二階に行っても三階に行ってもどの家も閉ざされていて入れないんだ。皆知らないうちばかりだよ。新見君、その階段を昇って四階に行ったら四階に行ってしまったら・・・

新見君は螺旋階段を駆け上がって行く。私は必死になって追いかける。ガンガンガンガンと四つの靴音が鳴る。新見君が振り返り私を見る。私達二人は非常に不自然で危険な構図に配されていた。

「おい!お前何でついてくるんだよ!」

「行ってほしくないから」

「お前いつも見ているな。俺が気になるのか」

「うん、好き。」

「ああ?」

新見君は呆気にとられて声がひっくり返った。

突然、緊張が解けた。

呼吸困難に陥るほど息が切れている私達に、酸素吸入器でも天から降って来たのだろうか。二人ともほぼ同時に吹き出し、暫く笑った。

「しょうがないなあ。ロフトで時間潰そうと思ったのにさ」

「ロフト?」

「いいんだぜ、あそこ。気が休まる」

「そうなんだ・・・」

そんなものがあるなんて私はまるで知らなかった。

「熊谷、お前、何かわざとらしいんだよ」

「え」

「そんな幼いって訳ないだろう。 まずは女子の親しい友達ちゃんと作れ」

ちぐはぐなやり取りだが、妙に納得してしまい私は答えた。

「・・・うん」

新見君は穏やかな表情になった。そして軽く顎で頭上を指しながら言った。

「ロフトに行こうぜ、雨入るけど」

私は頷いて、新見君の後ろから残りの階段を昇って行った。髪も身体も、雨でびしょ濡れだけれども、気にならなかった。

今まで図書室の上には何もないと思っていた。けれども、図書室へ続くドアまで螺旋階段を昇り終えてみると、頭の上には屋根のようなかたちでコンクリートが2メートルほど迫りだしていた。その中まで続く梯子のようなものがあったのだ。「立ち入り禁止」と書いてある腐りかけた板のようなものが梯子に括り付けてあった。 

新見君は構わずに梯子を登って行く。私も続いてそこをよじ登ると「ロフト」にたどり着いた。

天井が低い。新見君は慣れた動作で屈んで奥へ進んでいき座った。私も新見君の動作を真似て動いていき、その隣に座った。

初めて訪れたそこは静謐な場所だった。新見君が気に入りそうな場所、そう感じた。

「知らなかった、こんな場所があるなんて」

「殆ど誰も来ないからよく時間潰しに使っているんだよ。図書室で借りた本を持ち込んだりしてね」

そう言われて改めて見回してみる。蜘蛛の巣がある。床から天井までは140㎝くらいしかない。窓は壊れていて、確かにいくらか雨が吹き込んでいる。三人座るのがやっとという屋根裏部屋だった。

ここで本を読んでいるのだ、新見君は。蝙蝠でも現れそうな薄暗がりの中で良くは見えないが、床に二冊の本が置いてあった。

新見君は私の頭の上の空間を睨み付けながら言った。

「親父が色々な依存症なんだ」

「なんか息苦しくってさ、お前は分かるんだろう?」

え?分かるって、私が? 何と答えて良いかが分からなくなっていた。

「お前、姉ちゃんによく似ているな」

新見君は私に優しい表情を向けて言った。沙都ちゃんを知っているのだ。どこかで見かけたのだろうか。姉だと思っているのだ。

「じゃな、また」

新見君はそう言うと梯子へ向かい手摺を掴んでするりと身体を下ろした。そしてひとりでその先の螺旋階段を降りて行った。

私も梯子を下りた。今度は追いかけずに、上から、新見君が雨に煙る螺旋階段を降りて行く絵画を硝子の板越しに見続けた。

こんな風に新見君を見送ることができるなんて思わなかった。

硝子の板に雨が、そして涙の雫が滴り落ちる。決して止むことがない。――

 

新見君が先に教室に戻り、私は少し間を空けて教室に入った。新見君は鞄を持って教室から出て行った。佐川先生が家の人から急用の電話があったためだとクラスメイト達に簡単に説明した。

その日私は、午後の授業と美術クラブの活動を終えて家に帰り、四畳半の自室に入った。

沙都ちゃんが居なくなった部屋は広く感じるかと言ったら、不思議なことにそうではない。狭い。そしてみすぼらしい。机の傷なんていう普段は見えなかったものが、いやにくっきりと目に入ってくるのだ。

美術クラブでは静物のデッサンを繰り返している。見えたり見えなかったりするもののうち、どれを選んで描いたら良いか迷うことがある。

何も描く必要のない部屋で、私は無意識のうちに見るべきものを選んで過ごしてきたように思う。それならば現実だと思い込んでいる世界は何と頼りないものだろうか。何て儚いものだろうか。

ツキムラくんがかけているレコードの音が今、爆音でも構わないから今、鳴り響いてくれたらいいのに。私はそう思った。

ツキムラくんが過ごしている部屋と沙都ちゃんの居ないひとりぼっちの部屋を仕切る壁に、背中をくっ付けてみる。そのまま腰を下ろして座り、私は膝を抱えた。

お父さんもお母さんも何となく遠くへ行ってしまったような気がする。そんなことも現実であったりそうでなかったりするのだ。

私がツキムラくんと同じ爆音を聴きたがって壁に背中をくっ付けて待っている、それは確かなことのようだ。

沙都ちゃんはどんな病室で休んでいるのだろうか。新見君はロフトから出て螺旋階段を降りたら、どこで酸素を吸うのだろうか。

梅雨明けが遅くて良かった。降りしきる雨が私達を、覆い続けてくれているみたいだから。――

 

翌日、教室へ入ったけれども、新見君の席は空いていた。欠席なのだろうか。それとも停学とは本当なのだろうか。

うわの空のうちに授業が終わる。美術クラブの活動が終わる。いつものように一年生の仲間達と廊下に出ると、新見君が廊下に居た。

「熊谷、ちょっといいか」

声を掛けられて私は、戸惑いながらも頷いて新見君のほうへ歩いて行った。眼差しを少しの間私に向けてから、新見君はゆっくりと下駄箱の方へ歩きだした。また螺旋階段へ向かうのだろうか。靴を履き替えて校庭へ出てから新見君は言った。

「悪いな、呼び出して」

「ううん、どうしたの?」

私は靴の踵を気にしながら答えた。

「俺、転校することになった」

「転校?」

「停学じゃないよ。今の家の家賃が払えないんで、佐川先生の知人のアパートに引っ越すことになったんだ。K 区のさ」

「佐川先生・・・」

「ずっと相談に乗ってもらっていたんだ」

何度もひとりで職員室に入って行った姿を思い出す。そんな事情をずっと抱えていたのだ。

「仲のいい奴らには言ってあるんだけど、 お前昨日行ってほしくないって言ったろ?だから」

「ごめんな、明後日引っ越す。登校するのは今日がラストなんだ」

「え・・・明後日?手伝いに行くよ、私。」

「大丈夫だよ、孝雄の兄貴が車出してくれるし、男手が結構あるんだ。荷物は大体まとまっているし」

「じゃ、見送りに行く!」

「親父をできるだけ静かに、そっとしておいてやりたいんだ、 分かるよな?」

分かるって・・・。

まだ雨を落としてはいないどんよりとした曇り空が私に伝える、今見える二人の間にある硝子の板を叩きなさいと。両手の拳で叩いてみなさいと。板にはずっと前から涙の雫が伝っていた。私は鞄をグラウンドに置いて、そっと握り拳を作った。そして硝子の板を叩いた。小さく握り拳が揺れているだけに見えただろう。それが精一杯だった。

新見君は心配そうにこちらを見ていた。そして何か、感情の高ぶりを抑えているようだった。

「お前、お前は」

「色が白過ぎる。もっともっと日焼けしろよ。」

少し怒ったような語気で続けた。

「それでよく知らないが」

「明るいオレンジ色の服とか着ればいいんじゃないか」

最後まではっきりと、なぜだか新見君はそう言い切った。

私は声が出ない。叩いても、叩いても、ただ二人の間にある硝子の板に雫が増えるだけだった。

その幾筋もの涙の雫が流れて行くのをじっと堪えて何度も何度も見送っていた。 新見君は顔を上げて言った。

「ありがとう」

私に背中を向けて、新見君が去って行く。グラウンドに私が、残されていく。追いかけることができない。ーー

 

新見君が校門を出て見えなくなってから、私は螺旋階段へと走って行った。夢中で階段を駆け上がって行った。何かを破壊するかのように、靴音を大きく鳴らして行った。四階まで昇り詰め、梯子をよじ登ってロフトに潜り込んだ。

床にあった本を見たかったのだ。新見君がきっと読んでいたであろう本を。

新見君は今日、あの二冊の本を図書室に返そうと訪れただろうか、このロフトへ。

もしも忘れてしまったならば、二冊の本はきっと今頃、 私と同じように置いてきぼりになっているはずだ。

そして、新見君は忘れてしまったようだった。

今日も薄暗くてしんと静まり返ったロフトの床には、二冊の本が残されていた。そっと床から拾い上げ、一冊ずつ埃を指で払ってから膝の上に乗せた。

置いてきぼりの仲間達の名前、

一冊目は「青春は美わし」、

二冊目は 「朝の祈り 夜の祈り」。

 

本を手にしてページをめくり、後ろを見てみる。二冊ともに貸出しカードがあった。返却日は過ぎてしまっていた。

「新見君、私返しておくし、安心して」

そうひとりごとのように私は呟いた。そして本を開いて読み始めた。「青春は美わし」には短い小説二作品が収めてあった。二作とも一気に読めた。

次の「朝の祈り 夜の祈り」を手にする頃には、ロフトの中は暗くなり、文字を追うことが難しくなっていた。また、この本は、毎日読むように構成されたもので、今日読み終えられるというようなものではないことが分かった。

私は二冊を抱えて片手で手摺を掴み、梯子を何とか下りた。もう辺り一帯が薄暗くなっていた。螺旋階段を降りて、長時間放ったらかしにしていた鞄を持ち上げた。そして上履きに履き替えて校舎に入り、図書室へ向かった。

図書委員が図書室に鍵をかけて出て行こうとしているのが見えた。私は急いで駆け寄り、図書委員に遅れたことを何度も謝った。そうして二冊は無事に返却出来た。

校門を出る頃にはかなり暗くなっていた。空を見上げると、雨雲の隙間に三日月がうっすらと見えていた。夜の帳が下りる団地への短い道程を歩きながら、「朝の祈り 夜の祈り」をどこかで買って読んでみようと、私は心に決めていた。――

 

家に帰り着き鍵を開けて入ると、お母さんが玄関まで見に来てくれた。

「ごめんなさい。友達と話していて遅くなってしまって・・・」

私は沙都ちゃんのことで憔悴しているお母さんに嘘は言いたくなかった。心の中で囁いた。長話をした友達は二冊の本だったのだけれども、と。

お母さんは私に少し微笑んでからダイニング・キッチンへ入って行った。

夕食はお母さんと私が先に食べ始め、20時近くなると帰宅したお父さんが食事に加わる。私達は殆ど会話をしなくなった。お母さんと私とで食器を洗い後片付けをする。

そしてそのあとは、ひとりぼっちの部屋で宿題をする。21時半を過ぎる頃、ツキムラくんとロックミュージックを聴く。時々爆音も聴く。壁に背中をくっ付けて聴く。

22時を過ぎたらお父さんとお母さんが寝静まる。月村さんご夫妻はここ数日、日付を越えても帰らない。

爆音を聴きながら、考える。沙都ちゃんは私のことをどう思っていたのだろうか。嫌われたくなくて沙都ちゃんの前で静かにしているだけの私を。沙都ちゃんは本当には私を見ていなかった。私を見て、沙都ちゃん、私を見て。たくさんあるはずの想い出なのだけれど、心が叫ぶ。私はそれらの中のどこに居るのだろう。沙都ちゃんの心の中のどこに私は居るのだろう。

壁の向こうに居るツキムラくん、話をしよう。この曲のここでいつもボリュームが上がるよね、この曲のここをどう思うのかな。

壁に背中をくっ付けて膝を抱えて心の中でお喋りを繰り返す。何もかも空しくなり、涙が溢れだす。

雨音は何もかも知っているかのように、労るかのように、単調な音楽を奏で続けていた。――

 

「お母さん、私、沙都ちゃんのお見舞いに行きたいんだけど、いいよね?」

翌日、新見君と会えなくなった学校から急いで帰宅し、家に居たお母さんに切り出した。

「駄目よ、今は」お母さんは厳しい表情で答えた。

そのあと、お母さんと私は不埒な会話を暫く続けた。お母さんの時折笑うそのタイミングは、不気味なほど不自然だった。

電話帳と図書室で調べた情報を手にしていた私は、着替えと仕度を終えてから無言で家を出た。

私は沙都ちゃんに会いに行く。

調べておいた通りに、電車を乗り継いでバスに乗る。2時間以上かかったが、無事沙都ちゃんが入院している病院にたどり着いた。既に17時を回っていた。

樹木に覆われた敷地内に小ぢんまりとした建物があった。 正面玄関らしきものを探したが、すぐにはよく分からなかった。停まっている車から降りた人がドアを開けて入って行くのが遠くに見えたので、私は急いでその人の後を追った。

ドアを開けて入るとすぐに私は呼び止められた。

「あなたは?」

「田辺沙都の家族です。面会できませんか?」

病院の関係者らしい四十代くらいに見える体格の良い女性は強い語調で言った。

「許可はどうしました?予約なしではできませんよ」

「え?あの・・・お見舞いなんですが」

「ここはあなたみたいな子供が勝手に入るところではありません」

私は勝手に入り込んでしまったのだ。

「ごめんなさい。勝手に入・・・」

言い終わらないうちに突然、病室から叫び声が上がり、 廊下に響き渡った。

 

「神よ!」

 

 

私は何が起きたのか分からぬまま立ち尽くしていた。

叫び声には何も反応せずに、目の前の女性は悲しげに私を睨み続けている。

「私は、私は」「中学生です」

浮かんだ言葉は意味の分からない、そして敗北の言葉だった。

「出て行って」きっぱりと女性は言い放ち、私をドアの外へ追い出した。

直後にドアは閉ざされた。

 

どこをどう歩いたかよく思い出せない。様々な思いが胸に去来する。バス停を見失い、夕闇の中を歩き続けた。ネオンサインが瞬く間に街の姿を変えて見せる。

突然、背後からうねるような爆音が近づいて来た。思わず私は振り返った。

暴走族が激しい音を吐き出しながら大通りを走っていた。

その一行が走り去って、商業施設の駐車場に目を移すと、バイクから降りた少年達が談笑していた。その中にひときわ小柄な少年が居た。ツキムラくんに似ていた。びっくりするほどよく似ていた。違う、そんなはずはない。大人っぽく見えるけれどもまだ小学生だ、ツキムラくんは。 

 

不意に私は呟いた。

――  ツキムラくん、ごめんね。あのストロー、カビてたんだ、 黒い点がふたつ ――

 

そう声に出してしまってから、電気が身体を引き裂くようなショックを感じた。

違う。違う。このひとことはツキムラくんのものだ。早く、一刻も早くツキムラくんに返さなければ。返さなければいけない。どうして私はいつまでも気付けずに、自分の喉元に留めたりしたのだろう。

あの焼ける日差しの七月一日、沈殿物で埋まっているように見えた乳酸菌飲料。白いはずのストローは絶望的に汚かった。毒かも分からないのに、ツキムラくんは黙って飲み干した。

けれども、けれども、今頃これをツキムラくんに言ったらただの迷惑だ。だから私はきっと他のかたちに託していくしかないのだ。

私には、ツキムラくんに新見君に沙都ちゃんに想いが溢れ過ぎる。

自分のうちに曖昧に留めることも、硝子の板を破って相手に届けることも叶わない。

いつまでこんな自分のバランスを保てるというのだろう。

 

病室から聞こえた叫び声が、私を激しく揺さぶり続けている。

 

徐々に混沌とした心へ言葉によってあかりがともされていく。

 

置いてきぼりになった二冊のうち、「朝の祈り 夜の祈り」は、20ページほど読んだ。その中にあった祈りの文が、ぼんやりと何度もよみがえっていた。

本を開いて、初めて私は「神よ」という祈りがあることを知ったのだった。

 

丸暗記の苦手な私は、文章を再現することが出来ない。

新見君を想うことが辛くて仕方なくて蓋をした。

初めて知った迫り来る神聖さに怯え、意識にのぼらないように閉じ込めた。

 

けれどもどうだろう。

あの叫び声は呆気なく、その怯えも蓋も閉ざすもの全てを取り払ってくれたではないか。

 

切なるひとの想いこそひとと異なる存在へ放たれるという仕組みが存在するのだ。

知らない誰かの声がいつからかどこからか響いている。

そしてそれはどこへ放たれるのか。

「神」という存在へ放たれるものなのだろう。

それが祈りというものだったのだ。

 

私も、沙都ちゃんの居るあの病棟のひとのように「神よ」と祈ってみたい、そう思えてくる。

 

新見君もあのロフトの中で、何かを祈らずにいられなくなり、祈っていたのかもしれない。

 

全て閉ざされた先の、あの梯子の上にあった空間。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

神よ

 

私にとって未知のひと

 

遠いひとであっても

 

隣人のことを覚えます

 

私だけでなく

 

隣人のことを想います

 

悲しんでいる人には

 

いつも

 

あなたが近くにいまして

 

たましいを見守ってください

 

イエス・キリストのゆえに

 

この祈りをおききください

 

アーメン

 

 

 

 

 

 

(終わり)