もう30年以上前のことである。

 その頃、ソニーの業務用機器ビジネスで新たな市場開拓をするために新設された本部に所属していた。これまでとはちがうマーケットに入ろうというのだから、これまでとはちがう人材が必要ということで、当時の大企業にしては珍しく、中途入社を積極的に受け入れており、全所帯30人くらいのうち5・6人が「新人」だっただろうか。本部No.2のA氏は、損害保険会社という全くの異業種から転職してきた50歳間近の男性だった。

 かくいう私も、3年間のカナダ赴任から帰任したばかり。元々は業務用機器の海外マーケティング部門にいた生え抜きとはいえ、ちょっとした新人気分である。そういう混成チームには、古巣の部署とはちょっとちがった活気にあふれていた。

 

 その日も、本部のほぼ全員が20時近くまで残業をしていた。トップの本部長はいなかったが、No.2のA氏が突然大きな声で告げた。

 「おー、みんな、いるな! ちょっとミーティングしよう!」

 はあ?! 

 北米の個人主義的、ワークライフバランス重視の働き方にすっかり慣れ親しんでいた私は、そこでプッツン。

 「Aさん、みんな、やることがあるからこの時間まで居残ってるんですよ! いきなり8時からミーティングなんて、私は出ませんからっ

 

 30代前半。まだ係長にもならないペーペーが、副本部長に向かってそう叫んだのである。若かった…(!?) 

 一瞬、フロアがしーんとなった。その後、A氏がミーティングを決行したかどうか、よく憶えていない。いずれにしろ、大見栄切った私自身は出た記憶はない。

 

 はっきり憶えているのは、その翌朝のこと。

 A氏が出社早々に私の机に来て、こう言ったのだ。

 「昨日は申し訳なかった。みんなへの配慮が足りなかった

 そう素直に謝られては、こちらも折れざるを得ない。

 「いえ、私のほうこそ、生意気言って申し訳ありませんでした」

 

 思えば、いい会社だった。

 創業者が、「『No』と言える日本」という書籍を書いただけのことはある。私に限らず、上司に対して部下がNoと言う場面は、日常茶飯事だった。上司に逆らって左遷された、という話もあまり聞いたことがない。

 一方、損保の中でも最老舗のトップ企業から来たA氏は、副本部長にタテつく女性ヒラ社員という、おそらく前職の組織風土においてはありえない光景を目の当たりにして、大きなカルチャーショックを受けただろう。でも、それを冷静に受け止め、「部下は上司に従う」「残業時間の会議は、勤勉の証」みたいな無意識のバイアスに気づき、潔く部下に頭を下げてくれた。有難いことである。

今風に言えば、「心理的安全性」のある職場だったのだ(あの会社が、今もそうであることを願っている)。

 

あれから30年。つい最近、管理職向けに、部下の多様性を尊重する人材育成研修の内容を詰めているとき、こう言われた。

 「会議は、多様な働き方をする部下全員が無理なく参加できる時間帯に設定する、というメッセージも伝えてください」

 

 はあ?!

 今さらそんな、キホンのキ、みたいなことを外部講師が言わないといけないんですかぁ? …と思いかけて、いやいや、世の中、まだそんなものなのだ、と思い直した。

ニッポンの社会の変化の遅さ。忍耐強く変えていくしかない。