大学時代、神奈川県の西の端から都心まで、東海道線と小田急線を乗り継いで通学していたことがある。片道2時間は、読書や睡眠、試験前の追い込み勉強にもってこいであった。
 大学3年の初秋だったか。午後の講義のため、通勤ラッシュがひと段落した列車に乗った。その日は十分寝足りていたので、下北沢の古本屋で買った文庫本を読むことにする。その頃ハマっていた森村誠一の、「密閉山脈」だった。
 4人掛けボックス席の向かい側には、熱海の温泉帰りだろうか、物静かそうな夫婦。私が鞄から本を取り出してページを開くと同時に、その二人の間の空気がかすかに揺らいだ。「ん?」と思う間もなく、夫のほうが声をかけてきた。

 

  「お嬢さん、サインしてあげましょうか?」
 目の前に座っていたのは、森村誠一その人であった。

 


 

 ネットのない時代でも、やせぎすで、穏やかそうでいながら眼光鋭い彼の写真は何度も目にしていた。
 「…え!? わわ、森村誠一さんですか!?」
 よりによって、なんで100円均一の文庫本なんだろう、新品買えばよかった。心中妙な見栄を張りながら、黄ばんだ表紙裏を差し出す。森村氏はしゅっと筆ペンを取り出し、「お名前は?」と尋ねながら、さらさらとサインをしてくれた。

 「あの、すごいファンなんです。人間の証明も野生の証明も読みました!」
ちょっと大げさに、月並みな言葉を並べただろうか。細かいことは忘れたが、私が大学生で国際関係論を専攻していること、森村氏が厚木在住であること、などなど、小田原で乗り換えた小田急線の始発電車のベンチシートでも、延々会話をした。
 本厚木で下車する間際、森村氏の言葉は、今でも憶えている。
 

  「自分の好きなことをやってくださいね」
 

 当時、既に人間の証明や野生の証明も映画化され、超売れっ子作家だった森村氏。そのときは知る由もなかったが、彼は子供の頃から作家を目指していて、大学卒業時は希望したマスコミに就職できずホテルマンになり、でも初志貫徹して32歳で作家デビューしたという。そういう人の、聞きようによってはごく当たり前な一言は、そろそろ就活を考える時期の私の心に、強く響いた。

 1ヶ月前、森村氏の訃報が伝えられた。
 Wikipediaで改めて氏の経歴をたどり、つい2年前に「老いる意味」というエッセイが出版されていたことを知った。
 そろそろ老いを考える年齢の今の自分に、40年近く前のあの言葉のように、どんな示唆をもらえるだろうかと、早速読んでみた。そこには、老人性うつに罹ったエピソードから始まり、作家として再び文章を書くことができるようになった有難みや、(したいことをするという)生きがいと(何もしなくてもよいという)居心地の良さの両立の難しさ、散歩でもいいから日々のスケジュール表を作るなど、様々な思いが流れるまま綴られていた。昭和ヒト桁生まれの森村氏は、同世代男性と同じく「妻に先立たれたら靴下のありかもわからない」とも白状していた。

 正直、目からウロコが落ちるような一言は見つからなかった。ベストセラー作家でもそうなのかな、と思った。けれど、考えるうち、それこそがまさに「老いる意味」なのかもしれない、と思い至った。
 どんなに功成り名を遂げても、年齢を重ねれば衰え、昨日まで出来ていたことが今日は出来なくなる。そういう自分に向き合いながら、朝起きてお陽様の光がきれいだと思い、美味しく食事をし、健やかに眠れただけで有難いと思えるようになる。毎日同じ習慣を繰り返すこと自体が、十分な「生きがい」となっていく。

 黄ばみの増した「密閉山脈」を本棚から引っ張り出し、眺めてみる。あの日、他にどんな話をしたんだっけ。その頃の日記帳を、久しぶりにめくってみた。残念ながら森村氏のエピソードは見あたらず、書かれていたことと言えば、同級生と庄司薫の本で盛り上がったとか、彼氏と「将来の話」をしなきゃとか、高校時代の失恋の小説仕立てとか。一人前ぶってあれこれ悩み、考えているつもりで、その実、何もわかっていなかった。
 あの頃、無邪気に思い描いていた「未来」とは、全然ちがう「今」。ちがうけれど、成長した実感もなく、相変わらず悩み、考えている。

 

 末筆となりましたが、森村誠一氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。