図書館に行く道すがら、なんとなく口ずさんだ歌は、思いっきり世代感が出てしまうのだけれど、中森明菜の「セカンド・ラブ(来生えつこ作詞、来生たかお作曲、1982年リリース)」。

 

 ♪恋も二度目なら 少しは上手に 愛のメッセージ 伝えたい♪

 

 あのねー、二度目くらいで上手になれると思うなよー。私なんて、〇度も恋をしてるけど、上手に伝えられたことなんて、あったのだろうか、って思っちゃうよ。

 芋づる式にでてきた次の歌は、薬師丸ひろ子の「メイン・テーマ(松本隆作詞、南佳孝作曲、1984年リリース)」。

 

 ♪笑っちゃう 涙の止め方も知らない 20年も生きてきたのにね♪

 

 あのねー、20年も、ってさー、20年しか、でしょー。私なんて、その〇倍も生きてきちゃったけど、いまだに知らないことだらけ、わからないことだらけだよ。

 来生えつ子や松本隆がこの詞を書いたとき、本気でそう思っていたのか、言葉の綾だったのかは、知らない。でも自分はたしかに、歳を取ればいろんなことがわかるようになって、いろんなことに上手に対応できるようになるだろう、と単純に思っていた。

 そうではないことに気づいたのは、たぶんつい最近だ。

 

 それこそ、自分の気持ちを相手にうまく伝えたり、相手の気持ちをうまくくみ取ったり、といったことでも、それは本当に自分の本当の気持ちなんだろうか、と自問すると、けっこうわからなくなる。

 ましてや人の気持ちは、たとえば相手に悲しい出来事があったときでも、その悲しみがどんな様相を呈していて、どのくらい深い(大きい?強い?)のか、周りの人にどう接してもらいたいと思っているのか、いくら想像してもわからない。わからないから、「お気持ちはわかります」とか「心中お察し申し上げます」みたいな常套句を軽々しく口にすることは、到底できない。結果、「言葉もありません」「何かできることがあれば言ってね」くらいしか、かける言葉を思いつかない。

 

 あるいは、永年の友人にたまたま久しぶりに連絡をとったら、「聞いてもらいたいことがあるの」と言われ、すわ出番とばかりに勇んで出かけたところ、相手は意外に落ち着いている。つまるところ、私よりももっとその人のそばにいて、しっかり支えてくれる人がいたのだ。

 そっかー、よかったねー、と思いながらも、じゃあ私の存在意義って何なんだろう、と、わからなくなる。

 彼女にとって、というより、根源的に、私は何のために、誰のために、生きてるんだろう?

 もっと言えば、誰かのために生きる、ということが、正しい生き方なんだろうか?

 そもそも、「正しい生き方」なんて、あるんだろうか?

 

 どんどんわからなくなる。〇年も生きてきたのにね。

 

 そんなとき、中島義道氏という哲学者が、「たまたま地上にボクは生まれた」という本の中で、自分自身や人生や死について語った一節にある言葉が目に留まった。

 

 「答えを出すのではなく、問いを問いとして受け止めることが大切なんです」

 

 本の別の箇所で、こんな趣旨のことも書いている。

 対話とは、自分自身がほんとうに感じていることを語ること。当然『わからない』、どうしても体感的にわからないことが出てくる。でも、あきらめずにわかろうとする。ここに、産みの苦しみがあり、他者との格闘がある。

 

 少し、ほっとした。やっぱり、わからないことはわからないんだ。

 性急に答えを出そうとしたり、通り一遍の答えを正解だと自分に思い込ませたり、他者との関係性を率ない常套句でさらりと流したり、そういう横着をせずに、問い続けること。

 年齢を重ねることによって、上手に出来るようになることがあるとすれば、それは、「答えがわかる」ことではなく、「答えがわからない、という状態に耐える勇気を培い、問い続ける」ことなのかもしれない。