①不二家の「ソフトエクレア」というキャンディが昔は大好きで、高3の頃、受験勉強をしながら、たぶん2日に1袋くらい消費していた。
 ②私が敬愛していた経営者は、とても口の悪い人で、秘書やスタッフの浅墓な言動に接すると、決まって「アタマは生きてるうちに使え」と毒舌を吐かれた。
 ③大統領時代のオバマ氏は、的確な意思決定をするために、毎朝自分が着る服の選択は、他者(大統領専任のスタイリストだろう)に任せていたそうだ。

 ①②③の話の共通点は何か。
 それは、「人間は、頭を使うとたくさんエネルギーを消費するので、普通は出来るだけアタマを使わないよう手抜きをする傾向がある」という心理学の命題である。

 今でも私は、たまに(いつもではない?)アタマを使わねばならない仕事をしていると、圧倒的に甘いものが食べたくなる。脳みそが、即効性のある糖分を普段より余計に欲していることは、明らかである。
 逆に言うと、ふつーの生活の中でふつーに仕事をしていると、基本、無意識のうちにアタマを使わないモードになっている。だから、アタマの回転の速いスーパーな人から、「もっとアタマを使え」と言われてしまうのである。(余談だが、件の経営者の会議テーブルには、いつもキャンディの詰まった瓶が置かれていた)
 でも、たらふくソフトエクレアを食べても(!?)、使えるエネルギーは有限である。重要な意思決定をしたり、意志力を働かせて自分をコントロールしたりといった、高度な頭脳労働を効果的に行うには、限られたエネルギーをそこに集中投下できるよう、オバマ大統領のように、どうでもいいことは外注してしまうのが一番だ。
 
 最近の社会を見ていると、「アタマ使わなくてもいい」便利な世の中に向かって、どんどん拍車がかかっているような気がする。
 私たちが、「アタマ使わないモード」でいられるように、手取り足取り懇切丁寧な仕組みが色々と考案される。考案する本人たちは、思いっきりアタマを使うのだろうが、社会全体を合計すると、生きている人たちが「アタマを使う」機会は、質量ともに減っているのではないか。

 減少とまではいかなくても、「アタマ使う人」と「アタマ使わない人」の二極化が進んでいるのではないか。

 卑近な例で言うと、「地下鉄の窓開け」。
コロナ禍という人類未曾有の危機に直面し、感染防止のために、当初はみんながアタマを使って、マスク着用とか室内の空気入れ替えとか、色々な策を講じた。おおよそやるべきことが明確になってくると、途端に「いかにアタマを使わずに済ますか」モードになる。

 鉄道会社は乗客のアタマ節約に貢献すべく、「窓開けにご協力ください」という親切な車内アナウンスを繰り返すようになる。さらにアタマを使わなくてすむよう、「ここまで開けて下さい」という線引きが窓枠に施される。素直な日本人は、条件反射的に、つまりアタマを使わずにその線まできっちり窓を開け、どの車両でも均一な隙間が開く。

 いや、別に、いいんですけど。
 でも、幼稚園生じゃないんだから、空気の入替のためにどのくらい窓を開けるのが適切かくらい、自分のアタマで判断したっていいじゃないか。それをやらずに節約したエネルギーが、もっと高度な、クリエイティブな精神活動に振り向けられるならともかく、せいぜいスマホでゲームやネットサーフに費やされるくらいのことではないか。

 まあ、でも、こうやって私が、埒が明かない思考をぐるぐる回していること自体が、エネルギーの無駄遣いの最たるもの、というそしりを受けるのかもしれない。しかし少なくとも私にとって、気になったことを言語化する行為に対する優先順位は、結構高いと思う。オバマ大統領の洋服選びに対する優先順位の低さを反転したほどではないにしろ。

 何にアタマを使うのか。
 限られた脳みそエネルギーを消費するに値する思考対象を何にするか。
 何に対してもアタマを使わない、という状況だけは、人間として、回避したいものである。