男女ちょうど3人ずつ、6人兄弟の末っ子だった母は、10歳の時に終戦を迎えた。陸軍大佐の娘として、戦時中過ごしていた金沢の思い出といえば、毎朝、大佐をお迎えに来る軍馬に人参をやるのが日課で、ぼぉりぼぉりと貪り食べるが面白かったたとか、兵隊さんの一人が一番上の姉に一目惚れしてめでたく射止めたとか、他愛ない話が多い。
 けれど、終戦後は、そんな生活が様変わりする。職業軍人であったために公職につけなくなった父(私の祖父)と、優雅な大佐夫人から一転して着物を次々質入れせねばならなくなった母、旧制中学に入ったばかりの末の兄、そして婚期を逃した父方の叔母。5人暮らしの中での様々な苦労話は、これまで何度も聞かされてきた。

 でも今年、たまたま終戦記念日を母と共に過ごしていて、36年前の日航機墜落事件のTVを観ながら、母が語り出した話は、初耳だった。
 

 「おばあちゃん(私の祖母=母の母)がね、イサオが死んでくれてよかった、って言ってたの」

 イサオというのは、母の真ん中の兄である。1番上の兄とともに陸軍に入隊し、終戦後しばらくして戦死の知らせが届いた。だから私は、軍服姿の写真でしか遭ったことがない。
 ちょっとおばあちゃん、我が息子が死んでよかった、なんて…。
 ぎょっとする私に、母はこう説明してくれた。

 「おじいちゃん(私の祖父=母の父)と、上のお兄ちゃんが戻ってきた後だったでしょう。これで、イサオまで無事帰還したら、大佐の一家は戦地でも特別扱いを受けてたに違いないって、ご近所の恨みをどれだけ買ったことか、って」

 またそうやって、他人の目ばかり気にするのって、日本人の悪い癖、と安直に言いかけて、反射的・短絡的な自分のバイアスに気づいて、そのまま口をつぐむ。母が、さらに続ける。

 「たまたまね、うちの近所に多かったのよ。長男が亡くなったとか、一人息子を奪われたとか、そういうおうちが」

 そういうことか。

 「嫡男」という言葉が重い意味を持っていたあの時代。人の命に軽重はないけれど、大切な後継ぎ息子を赤紙一枚でお上に召し上げられた挙句、戦死の公報を受け取った家族の哀しみは、いかばかりのものだったか。
 それに比べて、長男次男三男、盤石に揃っていた母の家。そして、陸軍大佐という職業軍人の一家は、立場が違う。

 祖母が、そのとき、どのくらい自覚的だったかはわからない。
 けれどおそらく、母として、息子を喪った哀しみをご近所の「母」たちと共有しつつも、お国のために命を捧げるよう命じた側である陸軍大佐夫人としての、責任の重みを感じていたのではないか。哀しみに暮れる人たちとは違う立場であることを自覚し、その人たちの気持ちを慮り、自分の息子の命が犠牲になったという事実によって、ある意味「贖罪」を果たそうとしたのではないか。
 「息子の死を悼む」という個人的な感情より、ずっと高い次元の視点から、その「死」を「よかった」と言い切った、祖母の勇気。気丈な責任感。
 そういうことなんじゃないかと、妙に熱くなって、母に向けて滔々と演説してしまった。

 「おばあちゃん、素晴らしいね」と締めくくったら、「そうね」とうなずいた母は、涙声だった。
 
 今の時代、実の息子が「死んでくれてよかった」なんて口にしようものなら、ネット炎上間違いなしである。
 -命より尊いものはない。
 -決して死んではいけない、死なせてはならない。
 -言うに事欠いて「死んでよかった」なんて、もってのほか。
 時代が平和になり、社会環境の改善や医療技術の進歩によって「死」がどんどん「非日常」となる中、「死」を否定的に見る風潮が強くなるのは、ある意味、当然かもしれない。
 けれど時には、「死」というものが、とても大切な意味を成すことがある。