近頃、めっちゃ、死んでいる。実際には、こうやってブログを書いているのだから死んではいないが、毎日のように、というか1日のうち何時間も、胃がむかついて死にそうで、不愉快極まりない。

 理由ははっきりしている。アドレナリンの出過ぎ、である。

 人間は危機的状況に陥ると、Fight or flight、その状況と闘争するかそこから逃走するか、どちらのほうにも敏速に反応できるよう、心拍数を増し、血圧を上げ、瞳孔を開き、身体の隅々まで血流を流し込み、消化機能は後回しにして四肢の筋肉をスタンバイさせるべく、交感神経をオンにする。その伝令役がアドレナリンなのである。

 目下、私にとっての「危機的状況」とは、修論研究に他ならない。
 この歳になって初めて知ったが、修士論文とは、ただ机に向かってフォントの小さな英語論文や定価5,000円以上発行部数100以下の専門書を読み倒し、ぱちぱちと文章を書く作業だけに留まらない。少なくとも私の場合、企業の何十チームのリーダーと傘下のメンバ―延べ800名近くにGoogleフォームによるWebアンケート調査を行ってデータ収集するという「事務作業」が伴う(ご協力者の皆様、本当にありがとうございます)。
 詳細は割愛するが、この「事務作業」には超・神経を使う。1つのミスも許されない、集中力と注意力を要する。個々の作業は、単純入力、コピぺ、表作りに過ぎないが、1つ間違えたらデータ分析が出来なくなる。分析が出来なければ修論が書けない。修論が書けなかったら大学院に行った意味がない。このプレッシャー。吐きそう。
 かくして、アドレナリンをどばどば噴出させながら、GoogleフォームのURLをひとつずつ生成し、肩に力を入れながらコピぺし、鉄道の運転士よろしく指先点呼でメールの宛先・件名・内容・添付書類を確認し、息を止めて「後で送信」の時刻設定をする。ほんと、胃の痛くなる作業である。

 しかし実はこの手の「事務作業」、サラリーマン時代にはけっこうやっていたのだ。メーカー時代には、販売会社に新製品のスペックや価格や販売台数を連絡したり、こまかーい事業計画を作っていた。ファンドのIRでは、四半期ごとの投資家向けレポートは1円たりとも間違えてはならなかったし、何億何千何百何十何万円単位のキャピタルコールレターを発行した。あのときもアドレナリン出しまくり、集中力と注意力を研ぎ澄まして何度も見直して、さらにペアを組む相手とダブルチェックして、えいやっ、とメールの送信ボタンを押したものだ。
 それが、日常茶飯時の一部であった。
 
 今、なぜこれほどアドレナリンを分泌させねばならないのか。
 もとい、なぜこれほどアドレナリン分泌が「死にそう」なくらい「不愉快」なのか。
 なぜなら、アドレナリンには常習性・中毒性があるからだ。つまり逆に言えば、アドレナリンを出す習慣が減るとアドレナリンに対する耐性が衰えるせいである。
 サラリーマンを辞めてからこの方、私の身体はアドレナリンを分泌する機会が減って(というか、アドレナリン分泌機会を減らしたいからサラリーマンを辞めたという説もある)、アドレナリン耐性がすっかり衰えてしまった。その結果、このたびの修論作業で久しぶりにアドレナリンをちょっと出してみただけで、ものすごく身体に負担を感じ、不愉快な気分に苦しむというわけだ。情けない。

 アドレナリン耐性は、年齢とは無関係である。実際、大学の同級生たちは、アドレナリンを分泌することに喜びを見出す、まさにアドレナリン中毒患者が少なくない。ばりばり現役の彼ら、彼女らは、ひとつ難題を乗り越えると、自ら新たなチャレンジを見つけ出して果敢にアタックする。見上げたものである。しかもそのチャレンジの相手は、日本経済だったり国際政治だったりするのである。

 それに比べたら、私のアドレナリンの元凶の、なんとささやかなことか。
 しかし、人は人。修論が終わったら、今度こそ本当に、ゼッタイに、アドレナリンを出さない平穏な安寧な静謐な生活を送ろう。
 そう心に誓いながら、ちまちまとした作業に注意力を振り絞っている。