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 大学院という新しい環境への適応課題とその解決。ここでさらっと復習します。
 まず、一糸乱れぬ(?)強制的団体行動は、入学式のあとはさほどないことがわかった。ほっ。
 「あまりしゃべらず、よい子ぶる」のは、どだい無理筋(笑)。無理して猫かぶっておしとやか(?)なふりをしてもすぐバレる。そもそも大学院に行く最大の目的は「お友達をつくる」ことではない(充実した学生生活に友人の存在は不可欠だが)。当初の緊張はどこへやら、さっさと開き直って、通学3日目くらいからふつーに振る舞うことにした。ほっ。
 最新鋭ネット環境への適応問題。最初はビビるが、平たく言えば、いくつかのサイト登録とアドレス設定をするだけのワンショット作業である。「IT苦手」「加齢による注意力・記憶力の減衰」という事実を真摯に受け止め、謙虚に丁寧にゆっくり落ち着いてひとつひとつずつ指差し点呼しながらやれば、どうにかなるものである。ほっ。

 サイト上での履修登録の仕方もわかり、あとは勉強に勤しむだけ。ところが、実は…。

 
大学院は、勉強するところでは、ない(!!!)。

 え。そんなの、当然じゃない。今頃気づいたの?とつぶやいた修士号保有者のみなさま、ごめんなさい。でも、私は、気づいていなかったんです。

 
大学院は、「研究」をするところ、なのである。

 誤解に気づいたのは、何度か授業に出てみてからのことだった。
 自分より歳の若い先生が、黒板ではなくPCスクリーンの前に立ち、マイクごしに講義を始める。こちらは何も考えずにノートをとり始める。中学、高校、大学はもちろん、会社でも、「ノートをとる」という行為は一貫して私の得意技なのだ。しかし今回、ふと我に返った。
 「何のためにノートとってるんだろう」


 そもそも大学院を受験しようと思いたったのは、心理学を系統立てて学びたいと思ったからだ。しかし必修科目の中には、自分の直接のニーズと合致するとは限らないものもある。また、必要単位を稼ぐため、興味のストライクゾーンに入らない選択科目も取らざるを得ない。
 とはいえ、大学1年のとき、泣きそうになりながら「フォートラン」で稚拙なプログラムを作ってどうにか単位取得したのは過去の話。社会人大学院なので、学期末に資料持ち込み不可の筆記試験があるわけでもなく、出席率3分の2以上で最低1回グループ発表とか、期末に1つレポート提出とか、ハードルはわりと緩めのようだ。
 であれば、そんなに律儀にノートをとる必要はないではないか。
 疑問に思いながらも、先生の話が始めると、パブロフの犬よろしく条件反射的に無印良品の0.38ミリゲルインキペンを走らせてしまう、悲しい性。

 そんなことをを何度か繰り返すうち、ようやく気づいた。授業は、基本・応用知識の習得はもちろんだが、自らの研究に対するヒントを得る貴重な機会だったのだ。
 講義のそこここで、先生が直接「研究のヒント」を示唆してくださる。テーマについての考え方、仮説や変数の設定の仕方、果ては教授陣の厳しい中間レビュー(まだ1か月以上先のことなのに…)にめげない心構え。直接のヒントでなくても、事例や引用文献や心理測定尺度や、なんやかんや。

 その気になれば、「目に映るすべてのことはメッセージ」だったのである。   …その4に続く