宗教拒絶反応?
。(ネタ切れ?)今回は前回の予定
を変更致しまして、今ちまたで話題になっている「カルト教団」や「宗教への拒絶反応」についてお話したいと思います。
これらの問題は本来の宗教へのマイナスイメージの増加やますますの経済崇拝宗教?への信仰者の増加という心から唯物論オンリー社会への益々のご発展につながるからであります。
またそれが良くないと言っているのではありません。経済、つまりお金信仰主義がさらに強くなればそれにより皆が本当の安心や、また逆境になんとか耐えうる芯を持つことが出来ることをも抹消しかねないことに不安を感じるからであります。
その芯を持って(信でも構いません)の経済ならば良いのですが、そうではないとまさしく「人間至上主義」になってしまうかもしれないからであります。特に日本は昔から精神文化の優れた民族でありました。
この平和(諸外国に比べて)な日本はきっとその過去の素晴らしい精神文化からきていることは疑うことはないと思います。
つまり「殺すな」「盗むな」でありますが、確かに過去にひどい無慈悲な侵略、略奪、処刑が行われた事実はあります。その点はぜったに忘れて はならないことであります。
しかし現在の平和は経済的安定のみではなく、基本的な倫理観とでもいうのでしょうか?
そのことも大きく作用しております。(日本的精神文化全てを肯定しているわけではありません。)何事にもバランスが大事でありますが、そのバランスが日本人が持っていた山や海、動植物を神とみるような自然観や仏教からくる教えやその他宗教もその内容から日本風に抽出され、土着し、好バランスを生んでいることは事実であると思われます。(全てそうではありませんが)しかしこの真面目な日本人は当然全力で仕事もしてしまいます。(最近アメリカもそうでありますが)また、そのようにすることが美徳という風潮もございます。なにごとも「やりきる!」ということは本当に素晴らしいのですが、「やりすぎ!」も問題であります。
しかし現在は経済不況でありますので、さらなる努力をせざるを得ません。それにより疲れ切った日本人は心の拠り所を求めます。それは本当に自然なことでありますし、もしかしますと、心の精神の悲鳴なのかもしれません。
緊急事態のサイレンなのかもしれません。少子化、老後介護問題、環境問題、新しい難病問題等々いつの時代でも問題は 山積みではありますが、ブッダの言うとおりそれは生存するいじょう当たり前のことなのかもしれません。しかしその当たり前なことは解っていても苦しむのが衆生であります。真正面から受け止めよ!では厳しすぎるのかもしれません。幸福を求め安心をもとめてばく進してきたことが、今信用出来なくなってきています。
そしてそれを信用できなくなるとなにも信用できなくなるか、又はさらに強引に信用できるモノを探します。それは自然なことではありますが、「そんなの甘い!」とおっしゃられる方々もいらっしゃると思いますが、誰もがそんなに屈強ではありませんし、またどうしようもない状況に置かれている方々もいらっしゃいます。そして芯がなければなおのこと辛いのみであります。
そこで宗教がひとつの手段となりますが、その時仏教はさらに厳しく(と受け取れてしまう)、教えてくることもございます。しかし逆境であたふたしながらも、なんとか耐えるというかしのいでしまうことに力となるのが本来の宗教と思います。
つまり問題自体が奇跡のように消えるのではないと思います。もしそれが起きたとすればそれはそれで素晴らしいことですが、平常心を失い、憑かれた状態での解 放では本末転倒であります。自己制御が本来の方法であります。現実逃避では逆であります。現実をありのままに受け止める、又はなんとか現実を見ながら生きられるように持っていくのが教えであると思います。
わたしも「宗教」という言葉を聞くとなにか得体の知れない気分になります。こんなhomepageを作っていてもであります。従ってこのhomepageでもつい宗教という言葉を避けたくなってしまいます。
それは仏教が宗教である。ということを日本語では言いたくないほどに自分自身も拒絶反応を持っているようであります。それで最近は「道」と言いたくなります。本当は「真理」とかももっと使いたいのですが、なかなか(苦笑)であります。
仏教も瞑想や観想に重点を起きます。というより、念仏も真言もお題目もとくに座禅なんかはまさに瞑想といえるかもしれません(形だけです)。しかしそれは乱雑に成りがちな自分自身を落ち着け、本来の自己を現出するのが目的であります。
仏教で言う解脱とはありのままに見る、聞く、考えることが出来る。つまり自分の勝手な価値観や都合を外してみることにより、自己を制御して(自己を無くしてでもいいのかもしれません)、本来の自己の確認であります。
従って瞑想により、現実逃避としか見られないようないわゆる精神病ではないのかと思われる状態とは全く逆であります。ありのままに見られるからこそ逆境になんとか耐えられるのであります。
確かに現実をありのままに受け入れて全てOK!という状態にはなりません。逆に安心しきって平々凡々となるのでもありません。逆にありのままにこの世の中が見えたらどうなるのでしょうか?きっと色々な愚ともいえる行動をとっている自分に気がつくはずであります。
そして何が問題なのかもよく理解出来るはずであります。それはきっと他人からみても人格破壊とは見えないと思います。また他人を低く見たり、慢心したりするのも減ると思われます。それはありのままに自分自身の愚を認めたからでありますし、そこに共感や慈悲が芽生えることは自然なことであるからであります。
愚を認めたからといって自己嫌悪ばかりではありません。「そうなのか、解った」といった感じでしょうか?それを認めるのには勇気が必要かもしれませんが、なぜかそこに「どうせ俺はダメ人間なんだ」では無い了解があるように思えます。
つまり自分のコンプレックスや防御しているものから 逃避するのではなく、また積極的に自己開発スクールのように認めてプラスにするのではなく、ただ並べてみるというか、眺めてみるのかもしれません。それにより、実際並べてみますとその中に自分自身が無いという摩訶不思議に出会います。そしてそれを並べつくして、並べるものが無いときになにかが起きるのかもしれません。
念仏でまかせきった状態も、真言行での三昧も、座禅での「ただ座った」状態ももしかすると並べつくす又は、並べることも自らが並べていたことに逆に気がついた時なのかもしれません。
そしてなにもかも否定するのではなく、無我や、空というのはきっと「そういう性質がある、そういう性質でないと存在できない」ということなのかもしれません。話しがいつものノリになってしまいましたが、つまり(ここまで引っぱっておいて!)解脱とは最近イメージされる(誤解される)ものとは全く違うものでありますし、人格形成ならともかく、人格破壊というよりは人格完成(さらに進化しますが)なのではと思っております。
しかし経済唯物信仰ではそれは認められにくい部分でもあります。現実逃避でもなんでもよいから救ってくれ、奇跡(物質現象的な)をくれ!、これ をやればどんな良いことがおきるの?これだけ払ったんだ救われて当然です!という(極端ですが)救われたいということが具体的(苦笑)ではありますが、またこれまた自然な願いかもしれません。そしてそれが発端だとしても、やがては本筋へといざなってくれるのが本来の「道」であります。
浄土系仏教での「他力本願」もそうであると思っております。それは「まかせきった」状態であれば逆境でもなんでもまかせきれるほどの信心が決定しているから出来ることであります。
なかなかまかせきることは難儀であります。まかせきっているということはどっかりと腰を据えられる状態であります。つまり強力な芯を得てこそ実現できるのが本来の他力本願であります。しかしそうは言っても目に見える利益があると思うからすがるのでありますから、仏教の本来の厳しいからこそ優しいという部分はそう簡単に得られるものではないこともわかります。
誰が好きこのんで逆境時にさらに自分に対して厳しく戒め続けられるのでしょうか?そこで発端としてはしょうがないのかも?と思っているわけであります。そしてその厳しくもやさしい部分に救いを感じることができたならば、信仰になるのかもしれません。また同時に生きていることの素晴らしさ(瞬間瞬間の連続の毎日!)一期一会、他との繋がっている喜び、そしてその喜びをも眺められる安定した瞬間に進んでいくのかもしれません。
なかなか仏教は自分の都合の良いようにはいかないし、そのように説いてくれないかもしれません。しかし逆にそこになにか安心感があることも感じます。その摩訶不思議な安心感に「救われているかも?」と感じるように思えます。
本当のことを言えるまたは言ってくれる(注意でもかまいません)友人は少ないものです。また言われると逆に腹が立ったり、また言うと友人で無くなるように思い、相手に合わせてへつらうことが私なんか多いのですが、仏教はどうどうと忠告してくれます。
そこに本当のやさしさが見えればそれはどれだけ素晴らしく、またその人にとってどれだけ救いになるかわかりません。人はどう生きられるか、からやがてどう死ねるか?になります。色々な努力もそれが目的なのかもしれません。しかし私なんかそれよりも手段ばかりに溺れて、欲望満足のみで生きてしまいます。
どんなに酒を飲んでも、どんなに騒いでも一時のストレス発散にしかなりません。人生の一大事に目を瞑っての行動にしかなりません。それはむなしいのではなく、(そう考えると刹那主義になる)そのように行動してなかっただけであります。それはそれを考えたくないという自己防衛が働いている のかもしれません。
しかしそこに無理かもしれませんが、なんらかの解答、了解を得ることが一大事であると思われます。それでこそ良い人生!となると勘ぐっておる真の欲望人間でありました。それではお後がよろしいようで、、、
南無釈迦牟尼仏 南無地蔵菩薩摩訶薩、南無仏南無法南無僧 合掌

