今日の山は、やけにくっきりと目の前に迫る。

雨が降ったそのあとの、圧倒的な自然の光景。

 

『雨が降った後は、汚れた空気が洗い流されてるから、遠くの山さえも近くにあるように感じるんだよ。』

 

そう言ったのは、誰だっけ…?

 

いや、そんなのちゃんとわかってる。

時折、詩的な表現をしたがる、ツッキーナが言ってた言葉だ。

 

ツッキーナこと、月夜は、自分は絶対的に正しいと思ってる節がある。

そして、人のいう事を聞かない。

 

いや。

聞いてるふりくらいはちゃんとする。

けど、月夜の口から返ってくる返事は、大抵人のことを小ばかにするかのような言葉ばかりだ。

 

……ん?

それは、私に対してだけなのか?

 

一瞬、そう思っては見るものの…。

それは私にはわからない。

だって、私は、私に返ってくる月夜の言葉以外、聞くことが出来ないんだから。

 

「…降りそうだな。」

 

耳元に降りかかるその言葉に、私は瞬間的に現実に引き戻される。

 

「……え?」

「もうそろそろ、降り出しそうじゃない? …雨。」

 

いかにも怠そうに言う彼の言葉に、私も、彼の指で開かれたベッド脇のレースカーテンの隙間の向こうを覗き見る。

窓の向こうには、どんよりとした雲が広がっていて、重たそうな空気まで感じてしまう。

その端っこから、今にも水滴が落ちてきそうで…

 

「…どっか行くの?」

 

私の言葉に、彼は怠そうに「あー…」って溜息にも聞こえる声を上げて私の頭の後ろに腕を回した。

なんなんだろう、これは。

まるで、自分以外に予定のある恋人に、そっちに行って欲しくなくて思わず言ってしまう一言に、それをうざったく思う返事みたいな…

 

いやいや。

彼は、行きずりの相手ではあるけれども、決して恋人ではない。

 

もう、数えきれないほど、獣みたいに回数は重ねたけど。

 

その想い…みたいなものには、お互い触れないようにしてるのか。

彼に関しては、その気持ちすら浮かばないのかもしれないけど。

 

「もしかして… ”もうちょっと一緒にいて!”的な?(笑)」

 

それを象徴するかのような彼の言葉に、私は苦笑すら浮かべて彼のことを見つめる。

実際は、彼を軽蔑してるわけではなく、自分自身が嫌になっているだけなんだけど。

 

「そ…んなわけないじゃん。 どっか行くなら、行けば…?」

「うっわ(笑) おまえ、本当期待を裏切らない返事寄越すよな。」

「…はぁ? ”おまえ”とか、言わないでくれる?」

「いや…(笑) 突っ込むとこ、そこ?」

「だって、そうじゃん… 私にだって名前はあるし…」

「いや、そういう事じゃなくてさ。」

 

彼は、一瞬だけ私のことを真剣な眼差しで見つめて…

けど、その眼差しは保たれることなく、クシャクシャな彼の笑顔の中に消えていった。

 

「…ってか、おまえだって俺の名前知ってる?」

「…え?」

「ほーら(笑) 知らないだろ?

なのに、”私にだって名前はある!”とか言われてもさ(笑)」

 

何が可笑しいのか、ただ笑い続ける彼の顔を呆然と見つめていた。

確かに。

私は彼の名前を知らない。

けどそれは、必要のない情報だと思っていたからで。

…じゃあ、彼が私の名前を知らないのも同じことじゃないの?

 

必要のない情報。

 

自分で思っていたそんな言葉に、私は身勝手に傷ついてしまう。

行きずりの男女の仲なんて、そんなもんだと割り切ろうとする自分と、相反する身勝手な心。

 

「凛音。」

「…え?」

「俺の名前。 凛とする音って書いてリオン。

…いや、わかるよ。 親のネーミングセンス最悪だろ?(笑)」

「え、そんなこと…」

「キラキラネームかよ! って思うよな。」

 

彼…

凛音は、どこか諦めたような顔をして、私の左側の眉を自分の右手の人差し指でそっとなぞるように撫でた。

 

「…で? おまえは?」

「……え?」

「名前だよ(笑) …なんていうの? 名前。」

 

そこで…

本当の自分の名前なんて、言う必要性なんて本当はなかったのに。

素直に自分の名前を教えてきた彼に感化されるみたいに…

 

「紅子。」

「…え?」

「口紅の紅と子どもの子でコウコ。 …私だって大概でしょ?」

 

ずっと嫌いだった自分の名前。

口紅の紅なら、ベニコじゃない?

けど、それならそれでだっさださだけど。

それを素直に告げてしまったのは、彼の影響がないとは言えない。

「え? 可愛いじゃん。 へぇー。 コウコかー。」

そう言って私の頭を撫でる彼の大きな手に、慰められていたのは事実だった。
 

なんの未来もない関係。

そんなの、慣れっこだったはずなのに。


その瞬間、私の中に訳の分からない感情が突如生まれてしまっていた。