奇抜な配色と誇張の効いた独特な映像表現が特徴的な湯浅政明。私は彼の表現がとても好きなのですが、特に気に入っているのは、背景の画風変化による心情描写です。今回は約1年前にアニメ映画「夜は短し歩けよ乙女」を視聴し、この表現に関する今でも忘れられないほど感動する発見をしたので紹介したいと思います。以降、ネタバレを含みますので、苦手な方はブラウザバックを推奨します。

 

 本作品は、京都大学に通う学生の「私」が主人公です。彼は同じ部活の後輩の女性に恋心を抱いたことから、自身の思いに気づいてもらえるように彼女の後をこっそりと追いかけ、様々な場所であたかも彼女と偶然出会ったかのようにみせかけます。彼女は非常にお人好しで、行く先々で出会う奇想天外で愉快な人々とすぐ仲良くなっていくため、追いかける彼もそれに巻き込まれてハチャメチャな体験をすることになるというのが概要となります。

 

 この作品の背景の画風は、少し歪みのあるあっさりとした黒(場面によっては白)の線に、ざっくりかつ少し誇張が加えられた人物や建物の造形、花札を想起させるような華やかであるものの落ち着いた雰囲気も兼ね備えている配色に、画像エフェクトが生み出す繊細な空気感の排除によるシンプルさなどが特徴的です。しかし、物語の終盤で主人公「私」と、彼の恋する後輩の女性は無事結ばれることになるのですが、これによって背景の画風は上記のものと比べて大きく変化します。

 

 まず、線で形を描き出すのではなく、水彩画のように細かな陰影や色味の変化によって物の形をかたどっています。この時、物の形に歪みや誇張が加えられておらず、比較的写実的な仕上がりとなっています。そして、画像エフェクトによる光の差し込む表現が追加されており、さわやかで温かい空気感という情報が追加されています。

 

 この変化に気づいた時、私は同じく湯浅政明が監督を務めた作品であるアニメ「四畳半神話大系」という作品のラストを思い返すことになりました。というのも、同じ監督の作品であるにもかかわらず、この監督の特徴であり、「夜は短し歩けよ乙女」でも見られた背景の画風変化と心理描写が見られなかったからです。加えてこの2つの作品はどちらも森見登美彦という作家の同名の小説を原作にしており、作品の舞台も同じ京都大学で、さらに共通して登場するキャラクターも存在するなど、強い関連性が生じているのでより気になりました。

 

 「四畳半神話大系」は京都大学に通う「私」が主人公です。しかし、あくまでこの「私」は先ほど登場した「私」とは別人であり、「バラ色のキャンパスライフ」を求めて様々なサークルで活動に勤しみます。本作は「私」がどのサークルを選択するかを起点にサークルごとのパラレルワールドが誕生し、各話ごとに別々の世界での「私」の日常を写しているため、毎回取り巻く環境に変化が生じます。それにより、話によって「私」が思いを寄せる対象が変化します。しかし、第10話にてそれら全てのパラレルワールドが融合した世界に「私」が迷いこんだことをきっかけに、彼の1年後輩にあたる、明石さんの人柄を知り恋に落ちた結果、最終的には結ばれることになります。それにもかかわらず、先ほども書いた通り、恋人関係になる前と後で背景の画風に変化は起きないのです。ではそれは何故でしょうか。これには2つの作品の「私」の恋愛に対する価値観が開放的であるか否かが関わっているのではないかと思います。

 

 「夜は短し歩けよ乙女」に登場する「私」は、恋愛に対して完全までとはいかないものの、親しい人物に自分の後輩への恋を口にするくらいには開放的です。一方、「四畳半神話大系」の「私」は、唯一の友達(悪友扱いではあるものの)やその他親しい人物たちの前でさえ、自分の恋愛事情を話そうとはしません。さらには明石さんと付き合うことを明かす際にも「成就した恋ほど、語るに値しないものはない」という文で濁した形で表現しています。それと同時に自分は人前で惚気を見せるような野暮な人間ではないという、少しひねくれた恋愛観を持っていると表明しています。つまり、「夜は短し歩けよ乙女」では湯浅監督の表現の一つである背景の画風を用いることで、主人公の恋愛事情の開放性を表現し、「四畳半神話大系」ではあえてそれを封印することで、主人公の恋愛事情に対する隠ぺい体質を視覚的にも表現しているのです。

 

 このように、作品を超えた対比表現が見られただけでなく、その中で監督の特徴である背景の画風表現を逆手に取って、あえて使わないことで的確に心情を表現していることがとても衝撃的でした。