『自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。』(マタイによる福音書/ 10章 39節)

 

キリストのために死ぬ=殉教の勧めのような感じがします。

 

他にも『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネによる福音書/ 15章 13節)

 

対して、『わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。』(ホセア書6章6節)

 

自分の命をささげる=生贄となることは、神は喜ばず、神を知り神を愛すことを喜ぶという御言葉があります。

 

しかし、12使徒の殆どは殉教です。使徒パウロもです。やはり、神のために死ぬことは信仰がある証のようにも感じてしまいます。

 

しかし実際こういう人もいるでしょう。『全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、

 

(愛がなければ、わたしに何の益もない。)』(コリントの信徒への手紙一/ 13章 03節)誇る相手は誰でもいいのですが、神でも人でも。

 

しかし、神への愛がばければ、意味がないのです。自分はこれだけやったから、いい評価が神からもらえるだろうと思うのは誇ることで、愛ではありません。

 

そこで最初の御言葉に戻ります。

 

『自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。』(マタイによる福音書/ 10章 39節)

 

この御言葉を英語で調べると、命は「life」となっています。lifeは生命という意味もあるのですが、人生という意味が最初に出てきます。

 

この御言葉は、自分のための人生ではなく、人生を神のために使いなさいということになると思います。

 

神のためとは、神の御心を行うことであり、それは自分勝手に決めるのではありません。ペトロは命がけでキリストを守るために剣を使いましたが、

 

それは、キリストの御心とは反したため、キリストは制止しました。そのすぐ後、ペトロはキリストを否定し、見限って故郷に帰り、漁師に戻ってしまいます。

 

この行動は、自分の信念のための行動であり、実はキリストへの愛ではなかったのです。12使徒などの殉教者は、実は自分勝手に殉教したのではありません。

 

すべて、キリストへの愛により聖霊の導きに従った行動です。それがキリストが望んだ彼らの人生だったということです。もちろん彼らはそれを知っていたでしょう。

 

闇雲に殉教することをキリストは望まないでしょう。キリストに評価されるために殉教しないでください。それは神へ誇ることです。

 

キリストの促しが重要なのです。神を愛し、人生を神のために使いましょう。 アーメン。

 

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悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(コリントの信徒への手紙二/ 06章 10節