私は別にバレエダンサーではありませんし、なりたいと思ったことも一度ならずありません。


私は日本舞踊を嗜むものではないですが、教室に行ってみたいと思ったことは一度ならずあります。


2ヶ月くらい前からでしょうか、気になり出したのは。


どうしていいかわからない。どう対処していいのか見当もつかない。


手。


イメージどおり、そう、手です。


よく意識されるのは(私的にいうと‘発作’が起きるのは)、たとえばホームで電車を待っているとき、またはその中で到着駅を待っているとき。たとえばエレベータを待っているとき、またはその中で到着階を待っているとき。


普段わたしは手提げカバン一つでだけで浪漫飛行、いやうそ、仕事場に行き来しています。


そうすると、カバンを持たない手は必然的に空くわけです。最近は左手が空くことが非常に多い。


そんなとき思うのです。その空いた手を、いったいどうしたらよいのかと。


いいですか、たとえば電車のホームで、赤ん坊のいる主婦は両手でベビーカー(もしくは抱っこ)です。たとえば電車で、展示会帰りのサラリーマンは両手に紙袋(もしくは左手に紙袋、右手はショルダーバッグの押さえ、もしくはつり革)です。たとえば街中で、あそこのカップルは彼氏の左手が彼女の右手、彼女の右手は彼氏の左手、彼氏の右手はタバコ、彼女の左手はヴィトンのバッグ、正直どうでもいいです。


ここに、私を捕らえて離さないその左手の問題が横たわっているのです。


そのまま垂直にだらりと垂らしているのもおさまりが悪い。かといって、垂直に屹立させていると人格を疑われる(「右折ですか?」みたいな)。ましてポケットに入れるのはガラじゃない。左手にカバンを持つと右手が空く。


途方に暮れた私は、それでも苦肉の策を編み出しました。


カバンを持つ右手と空いている左手を下腹部の前あたりで組むようなスタイル。朝礼のときの校長先生のようなスタイルです。


ホームで校長先生、電車で校長先生、エレベータで校長先生。


毎日が校長先生です。


そんな私もバカではありません。その違和感が何に起因するのかを考えました。


そうなんです、目的が見当たらないんです。


その手に目的がない(「考えるほどのことか」の声も聞こえますが)。


足は体を支えるために必死で働いています。目や耳や鼻は周囲の状況を認識するために懸命です。頭はあの子はタイプだ、この子はグッとくる、なんで付き合えないんだで一杯です。そして右手はカバンを持っている。じゃあ左手は・・・?



アイデンティティの喪失とそこに意味を付与しなければという強迫感。


すべてに意味が、そして価値がなければならないプラグマティックな世界において、その左手にひっそりとたたずむ「空白」には、あるいは一片の真理が宿っているのかもしれません。


明日から、あなたのその左手、どうしますか?

久々に衝撃的に衝撃だった。


プロペシア。


世の中に不条理なことは数あれど、頭の毛が失われていくことに諸行無常の響きを感じなかった人は絶無でしょう。


みずからの力では如何ともし難かったこの失毛への、そんな貴方であり私への救世主がついに来た!


いままでと違います、ハッキリ言って。


医療用医薬品なんです、これは。要するに、医者の処方が必要なんですね。しかも手間要らずな経口薬。


だって私、テレビで見たんです。とある専門家が言ってました。


「4人いるとしますと、2人は普通に生えてきます。4人中1人は爆発的に生えます」


耳を疑いました。


発毛の定義も曖昧なこの世の中、爆発的に毛が生える!


育毛剤をせっせと仕入れて、朝晩あたまに塗りたくり、一所懸命に一生懸命。


そんな医薬部外品な、シーシュポスな自分から抜け出せます。


こうなるとね、もうね、‘サー’の称号を与えてもいいね。


というわけで近々にクリニックに行って参ります。

とりあえず具体的内容に踏み込みませんが。


『客室乗務員は見た!』(伊集院憲弘著、新潮文庫)を読む。


いわゆる傍若無人、厚顔無恥な客の話も面白いが、スチュワーデス自身のエピソードにグフグフ。


石井光太の『物乞う仏陀』(文芸春秋社)を大宅賞の候補に挙がっているのを契機に読んだ。取材対象との距離感というのか態度というのか。

著者自身の「知る」ということへの欲求と、それを満たすことを可能にしようとする行動力、またそれを超えて対象に巻き込まれていく様に脱帽し、内容にもまた衝撃を受けた。


と、たまたま立ち寄った本屋で見つけてしまった。


『神の棄てた裸体 イスラームの夜を歩く』(新潮社)


即購入。

ホクホクしながら読む。


現在、ほとんど読み終わりに近いところまで来つつある。も、ただ、何となく「ん?」という感じを拭えない。

ともすると「ううん・・・・・・」となることもしばしばある。


面白いんだけどなぁ。ううん・・・・・・。


過日、ウィトゲンシュタインの入門関係的書および関連した野矢茂樹の初心者向け著作を読み、自分の頭の悪さに戦慄を覚え、ホウホウの体で門を後にしたのは記憶に新しい。


そして最近、なにを血迷ったのか、戦慄から数学に興味を覚え変え、クルト・ゲーデルの門をたたいた。


びっくりした。


まったく理解できない。噛み砕いて、優しく、しかも「これならわかるでしょ」という著者の自信すらうかがわせる屈辱的な例え話が理解できない。すでにいかなる理由でこの本を購入したのかすら理解できず、なぜ私に彼女ができないのかまで理解できなくなった。


門をたたくのは自由。けれど開くかどうかは別の話だったのですね。


嗚呼、不完全性定理・・・・・・。