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Webの使い方を考えよう

フォーバルのWeb知識箱が、身近な話題をもとに、ホームページの活用法をつづってます。

モラルの低下だけはハッキリ言って目も当てられないところまで墜ちてしまったようです。


先に申し上げておきますが、別に個人を攻撃するつもりはありません。どうしてこういうことが起きているのかを、きちんと見極めることが必要なのではないかと思います。


先日から世間をにぎわしているタレントの身内の生活保護費需給問題。身内で苦しんでいる人がいるなら、当然その中で余裕のある人がきちんと面倒を見るのはあたりまえだと思っていました。日本には「恥」の精神がありますから、良くも悪くも「恥」が表に出ることを嫌います。そういった意味から見ても、「生活保護を受ける」というのは、ほとんど最後の手段に等しいと考えていたわけです。


病気などにより働きに出ることができなくなった身寄りのない方々や、子どもを抱えて安定収入の得られる仕事に就くことができない方々、いろんなケースがあると思います。


そういったどうしても生きてゆくことが大変だという方にも、日本国憲法に定むる通り「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」があるのですから、それを国が保護していこうというものなのです。


それが単に就職する気のない働きに出ることのできるはずの元気な人に支給されたり、身内に援助する余裕がある方に支給されたり、意味もなく居ついている外国人の方に支給されたり、ハッキリ言って、本当に必要な方に届いておらず、本来必要のない方にばかり支給されているのでは?と疑いたくなる一方です。


もう一つ、それを取り巻く周りの環境もよくありません。福祉事務所がその本人の受給資格を調査するに当たって、銀行がその問い合わせには「支店」でしか受け付けないというバカな話がまかり通っています。国民一人ひとりの血税の中から支給するわけですから、その審査は厳格かつ大胆であるべきだと思うのですが、ここでも「銀行」のような経済の担い手が、それをジャマしていたのです。


この問題が大きくなったここ数日、あわてて本店一括での問い合わせを受付開始するといった報道がなされましたが、自分たちに火の粉が飛んでこないようにした、というのが本当のところでしょう。


金金金の世の中で、心がすさんでしまうのは本当にいたたまれません。


なんでもありがまかり通ってしまう世の中は、先進国どこにも共通することなのでしょうが、人の心を堕落させる一方です。そう考えると、経済先進国にいることが幸せなのか?と疑いたくもなってしまうのは、私だけでしょうか・・・。

(Webコンサルタント 國田丈樹)
どうやったらチャンスをものにすることができるのかを考えると、ものすごく面白いことが見えてきます。


自分の得意分野にチャンスが転がっていることは、なかなかあるわけではありませんが、広い視点を持っておくことで、千載一遇のチャンスをものにすることができるのではないでしょうか。


プロ野球で三冠王を3度も獲った前中日監督の落合博満氏は、現役時代レギュラーを確約されず、まだ1軍半の選手であった頃、それまで取り組んだことのなかったセカンドの守備の練習に勤しみ、見事レギュラーを獲得して一流選手への階段を一気に駆け上がりました。その時に落合氏は、レギュラー選手が移籍してぽっかり空いたセカンドの守備位置なら、いつでも試合に出ることができるかもしれないということで、誰から指示されたわけでもなく、自分で練習を重ねていったそうです。
(落合博満著『采配』より)

私も野球は大好きですから、こういったエピソードを聞くと頷いてしまうのですが、これを今の自分に当てはめてみた時にどうなのか、という視点でみた時に、はたしてそれだけのバイタリティを持って取り組んでいる方というのは少ないのではないかと思います。


誰にも得意分野が少なからずあるとは思うのですが、その得意分野で活躍できるのは稀です。もしくはその得意分野だけでは活躍の場がない、というケースの方がもしかしたら多いかもしれません。ですから、どこに自分のステージがあるのかを、いつも目を皿のようにして探しつづけるということが、ビジネスにとって大切なことではないかと思うのです。

どんなにすばらしい商品を作ったとしても、それを世の中に知らしめる術がなければ売れませんし、この分野には誰にも負けない!というものを持っていても、世の中で必要とされているのはその分野だけではダメだったり…。


自分に足りないもの、それが何かを見つけ出して補うこと、それが一流への道をつかむ条件なのかもしれません。

(Webコンサルタント 國田丈樹)

先日、ネット上でちょっとした炎上騒ぎがありました。目にされた方も多いかもしれませんが、「虚構新聞」なる、本当のことは一つも書いていないサイトの記事が、Twitter上で嘘と知らない人によってRT(リツイート)されたことで、うその情報が広まってしまい炎上したというものです。

「虚構新聞」
橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化(これは嘘ニュースです)

この一件は、嘘をついたつかないというような表面的な部分はまったく問題だとは思いません。実は今の「ネット社会」での大きな問題点を浮き彫りにしたものではないかと思うからです。


ネット上でこの騒ぎへの意見を読んでみると、「虚構新聞を信じる人がいるとは」「情報の取捨選択は自己責任」「だまされる方が悪い」etcというものが多くを占められていました。一方で「嘘を公然と撒き散らすのはいかがなものか」「運営者の良識を疑う」「おもしろければそれでいいというのは違う」といった意見もみられました。


うわべの問題だけであればこういった意見を戦わせればいいのでしょうが、本質は別にあります。


これまではインターネット上のサービスの多くが、「ITリテラシーがある程度ある」ということを前提に作られていました。ヘビーユーザーはいざ知らず、毎日ちょっとでもインターネットに接続して、情報を収集したり、ショッピングをしたり、情報を発信してみたりする程度の人が、最低限のリテラシーとして求められていたわけです。

しかし、インターネットの普及率は全人口の約8割になり(2011年総務省「情報通信白書」による)、そのリテラシーがあるという前提は崩れ去りました。決してITリテラシーが高くない方も、たくさんインターネットを使うようになってきたのです。

その方々にはこれまでインターネット上で使われてきた「ネチケット」(古い言い方?)といわれるマナーや、利用することによって培われてきた常識は通用しません。そのようなことは誰が教えてくれるわけではありませんから、右も左もわからないままときどき利用する状態が続くわけです。

TwitterやFacebookといわれるような、モバイル・スマートフォン時代のソーシャルメディアでは、こういった方々が、まずははじめてみようと、インターネットの第一歩として入ってくるケースが顕著です。

ですから、そこではリテラシーの高いものだけで共有できるということは通用しない時代になってきたということがいえるのです。


インターネット上では、誰もが快適に、そして自由に使える空間であることが大事です。しかし自由には表裏一体のように義務があります。はたしてその義務を、先んじて進んでいるものが果たせているのか、そこに今回の問題があるのではないかと思うのです。


「虚構」とうたっているわけですからフィクションに決まっているじゃないか、と思う人が少なからずいることも間違いないでしょう。ただ、内容のないテレビ番組を一方的に垂れ流され、情報は自動的に与えられるものだと植えつけられてきた私たち日本人には、インターネットで公開されている情報は、鵜呑みにしてしまう可能性は限りなく高いと思うのです。ましてや「新聞」などと名前を付けられれば、そこだけで疑いの余地すらなくなってしまうことは、容易に想像できます。


義務というのは、そういった人がいるからこそ、省くこと無しに丁寧に伝えてあげることではないでしょうか。昔のように言葉にすることが恐れ多いという時代ではなくなりました。これだけあふれんばかりの情報の中で、情報の取捨選択ができるようになることも大事ですが、うまくできないことを逆手にとって情報操作をするということだけは、まっとうな人間としてやってはいけないことなのではないかと思うのです。

インターネット上にはまだまだそういったことを理解されずに、我欲にまみれて発信している方がたくさんいることも確かです。そういったことをすることが「いけないこと」だという風潮を作ることも、インターネットを少し先んじて使っている人たちの義務になるのではないしょうか・・・。

(Webコンサルタント 國田丈樹)