先日、韓国旅行に行ってきました。
ブリスベン留学時の韓国人の友人と再開しました。食事の後、王宮近くの美術館で、歴史資料を見ながらいろいろと話すことができました。当然、その話の中には、日本軍に刺殺された王妃の話や、さきほどの美しい王宮の一部が破壊され博文くんの統監府になったことがあがることもありました。韓国が自治権を獲得してから、70年も経っていないという事実や、日韓での報道を考えると、当然その辺は敏感な問題であることは、美術館に入る前に覚悟していました。実際に、統監府は取り壊され、元通り宮廷を復元する工事が今現在進行中です。それを見る韓国人の気持ちはどうなんだろう。
そのようなことを考えていた上でしたので、確かに彼と美術館に一緒に入ることや、少なくともそのような話をすることを避けることは、その時に自分に可能であった妥当なふるまいとしてあったと思います。そのことを考えているときは、正直頭がフル回転していました。
それでも、持ち前の無駄なチャレンジ精神がたたって、僕はその韓国人の友人と歴史についていろいろと話しました。たくさんの話をしましたが、その結果わかったことがあります。
私たちの世代の日本人と韓国人には、日韓の歴史について、共感を持って話すことができる部分を持つ人がいます。最低限のことに感じますが、自分にはおおきなことでした。もちろん人間の内心なんて確定的に把握することはできませんが、話している中で、人間どうし・友人どうし、感知しあえるものがありました。「We have the history but now we live in peace and respect each other coz we are friends. Who are to blame is not certain people, but the human race」(「過去には歴史があるけど、俺たちは平和な時代に生きていて、お互いを尊敬しあってる。友達だからね。責められるべきは特定の民族じゃなくて人間ってやつじゃないかな。」)
私たちの上の世代の人間を中心に、もっと負の感情でお互いを見合う人々を私たちは知っています。実際に、たった3日間の滞在で、僕はテレビ放送で日本軍の映像を見ました。
しかし、大切なのは、今回のようなケースが一つあったことだと思います。そして、僕はその一例に希望を感じました。
最後に、個人的には、民族どうし(とか考え方の違う人どうし)の対立は、無くなることはないと思います。そのような問題に対しては、私たちは、鈍感にも過敏にもなるべきでないと考えています。個人的に、妥当であると考えている最低限の態度があります。
私たちすべての人間が、民族問題の当事者であることを自覚することです。
日本は、地理的環境がら、島国で海に守られていますから、そのような意識が発達しづらいのかもしれません。しかし、それを踏襲する態度は、多様化の時代の潮流に逆らうものです。すなわち、知らないものへの誇張された情報からの先入観、決めつけはただの怠惰とか怯えであり、甘えた無関心や無知は罪や暴力の類であるとまず気づくことです。その上で、民族問題に対して、自分なりの意見・立場を表明すること(できる状態にいつでもいること)です。
そういうことを一切せずに生きることは、難しいというか、ほぼ無理な話ですが、一方でそのようなことを少しであれ、頭の片隅に置くことはとても意味のあることだと思います。
そうすることで、次の世代にはより多くの友達たちができるはずです。
それはそういうもんなんだよ」とか、そういう旨の言葉は、誰の口からでも、一度は漏れたことがあるはず。
物事や人に関して、決め付けてくってのは、なんとも楽なんだよね。たとえば、世界情勢にしても、アメリカの指定した国を「悪の枢軸」としておけば、世界のヒーローと悪役はとてもはっきりします。他にも、今は女の人が大いに活躍している時代だとか、日本は平和な国であるとか、男っての浮気する生き物だとか、とかまあいろいろ。こんな感じに物事や人を決め付けるように把握していくと、その人の世界は綺麗に整理整頓され、なんとも整然たるものになる。知らないところは特になくなり、非常に人生が生きやすくなるんだよね。
しかし、残念ながら、本当の事実はぜんぜんそうじゃない。
世界はそんな整頓されたものじゃありません。現実の世の中では、事物は個別的で、多様になっている。そして、それらは常に流動してる。人の数だけ価値観や世界観があるから。たとえば、今日起きた出来事を正義として喜ぶ人がいれば、一方で、それによって悲しむ人がいて、それを悪と言う人もいる。そして、1年後にはすべてが逆になっているかもしれない。
そんなことを考えると、確かに、色眼鏡なしに、素直に人やものを見ることはとても難しい。正直無理。そうでもしなければ、世の中はあまりに不安定になっってしまう。それに、世の中には、自分と異なった価値観以外を認めない人たちもある。硬い殻を持たないと、すぐに自分が傷付いちゃう。
しかしね、逆に、俺は、そのような多様性や流動性に溢れた世界を、型にはめこんで、まとめてしまうのはもったいことかなあと思う。多くの自分と異なる人たちがいて、常に新しい考え方や生き方が生まれてる。それは楽しむしかないでしょ!と思う。そのほうが、人生が豊かになるし、楽しいと思う。
そのためには、自分の素直な感覚で、柔軟にものを考えたり見れればいいのではないか。そうすることは、とても難しいけどね。他人の色眼鏡や、自分の偏った思い込みや決め付けが、今の自分を規制しているかもしれないということを意識することで、俺たちは世界と自分たちを包むベールを一枚剥がすことができるんじゃないかなと思う。
そのためには、子どもの頃、素直に「なんでだろう。」と疑問に思っていながら、大人になるにつれ、理由なく「そういうものだ。」と思ったことを考え直すこととか。大切なのは、それを続けられるかどうかで、「そうゆうものなんだよ」を、なぜ「そうゆうもの」としてあるのか、なぜ皆がそれを無視するのか・常識だと思うのか、それをもっとよりよくできないのか。もちろん、場合によっては、考え続けることは、つらいことだと思う。でもね、つらいからこそ、その分成長するんじゃないかな。
ナイーブ(naive)というのは、英語では、基本的に褒め言葉ではない。傷つきやすい、影響されやすいという意味。それをポジティブな価値観として考えたときに見えてくるかもしれないと思った。
物事や人に関して、決め付けてくってのは、なんとも楽なんだよね。たとえば、世界情勢にしても、アメリカの指定した国を「悪の枢軸」としておけば、世界のヒーローと悪役はとてもはっきりします。他にも、今は女の人が大いに活躍している時代だとか、日本は平和な国であるとか、男っての浮気する生き物だとか、とかまあいろいろ。こんな感じに物事や人を決め付けるように把握していくと、その人の世界は綺麗に整理整頓され、なんとも整然たるものになる。知らないところは特になくなり、非常に人生が生きやすくなるんだよね。
しかし、残念ながら、本当の事実はぜんぜんそうじゃない。
世界はそんな整頓されたものじゃありません。現実の世の中では、事物は個別的で、多様になっている。そして、それらは常に流動してる。人の数だけ価値観や世界観があるから。たとえば、今日起きた出来事を正義として喜ぶ人がいれば、一方で、それによって悲しむ人がいて、それを悪と言う人もいる。そして、1年後にはすべてが逆になっているかもしれない。
そんなことを考えると、確かに、色眼鏡なしに、素直に人やものを見ることはとても難しい。正直無理。そうでもしなければ、世の中はあまりに不安定になっってしまう。それに、世の中には、自分と異なった価値観以外を認めない人たちもある。硬い殻を持たないと、すぐに自分が傷付いちゃう。
しかしね、逆に、俺は、そのような多様性や流動性に溢れた世界を、型にはめこんで、まとめてしまうのはもったいことかなあと思う。多くの自分と異なる人たちがいて、常に新しい考え方や生き方が生まれてる。それは楽しむしかないでしょ!と思う。そのほうが、人生が豊かになるし、楽しいと思う。
そのためには、自分の素直な感覚で、柔軟にものを考えたり見れればいいのではないか。そうすることは、とても難しいけどね。他人の色眼鏡や、自分の偏った思い込みや決め付けが、今の自分を規制しているかもしれないということを意識することで、俺たちは世界と自分たちを包むベールを一枚剥がすことができるんじゃないかなと思う。
そのためには、子どもの頃、素直に「なんでだろう。」と疑問に思っていながら、大人になるにつれ、理由なく「そういうものだ。」と思ったことを考え直すこととか。大切なのは、それを続けられるかどうかで、「そうゆうものなんだよ」を、なぜ「そうゆうもの」としてあるのか、なぜ皆がそれを無視するのか・常識だと思うのか、それをもっとよりよくできないのか。もちろん、場合によっては、考え続けることは、つらいことだと思う。でもね、つらいからこそ、その分成長するんじゃないかな。
ナイーブ(naive)というのは、英語では、基本的に褒め言葉ではない。傷つきやすい、影響されやすいという意味。それをポジティブな価値観として考えたときに見えてくるかもしれないと思った。