¥被災者に生活必需品を スーパー、総力結集して営業再開
フジサンケイ ビジネスアイ [4/2 08:16]
地震と津波は東北沿岸部の水道や電気、ガス、物流網を寸断し、多くの小売り店舗を閉店に追い込んだ。だが、一部のスーパーマーケットは震災後まもなくして営業を再開し、被災者に食料品や日用品といった生活必需品を販売し続けた。「小売りはライフライン。途切れさせるわけにはいかない」。そこには流通のプロたちが総力を結集した姿があった。

甚大な津波被害を受けた石巻港から内陸に約3キロの地点にあるイトーヨーカドー石巻あけぼの店(宮城県石巻市)。震災当日の11日、店舗2階で開いていた会議を青山稔店長が締めくくろうとしたとき、大きな揺れが襲った。売り場に飛び出すと、商品が床に散乱し、買い物客の悲鳴が飛び交っていた。

客を店外に避難させ、店を閉めたが、青山店長は「必需品を求めて客が来る」と直感。大急ぎで従業員とともに水やカップ麺、乾電池などをワゴンにかき集めて入り口付近に並べ、わずか3時間後に営業を再開した。

必需品を求める客は、午後9時の閉店まで絶えなかった。レジが動かないため、みんなで電卓をたたいた。後になって1キロ先まで津波が来ていたことを知った。

同じころ都内のイトーヨーカ堂本社では、物流企画開発部の飯原正浩総括マネジャーら対策本部は、東北地方を中心にした被災店舗の物流網立て直しを急いでいた。石巻あけぼの店の場合は、配送していた外部委託先の物流センター3カ所が被災し、機能不全に陥っていた。

対策本部のメンバーはすぐさま埼玉や福島など他地域の外部委託先の物流センターに配送を要請。各センターは小売り各社から大量の注文が舞い込み、フル稼働だったが、人員を増強するなどして必死に応じた。飯原マネジャーは「取引先のこうした臨機応変な協力がなかったら営業できなかった」と振り返る。

青山店長からはたった1度、「お客さま、従業員、店舗すべて無事」と連絡が入っていた。だが、その後は音信不通で、営業しているかどうか確認するすべもなかった。飯原マネジャーは「無事なら営業しているはずだ」と確信し、配送に向かう店舗に組み込んだ。

地震から2日後の13日、緊急手配した配送トラックが、寸断された道路をかいくぐって石巻あけぼの店にたどり着いた。

同店は、2日間で売るものがほとんど底をついていた。トラックを出迎えた青山店長はこみ上げてくるものを抑えながら、運転手とがっちり握手を交わした。

◆ダイエー 生きた「阪神」の経験

仙台駅前のランドマーク的存在であるダイエー仙台店(仙台市青葉区)。13日午前9時半、芝村浩三店長は今しがた届けられたばかりの水や食料品、カセットコンロなどの搬入を終えると、長蛇の列をなしていた買い物客を迎えた。近辺に開いているスーパーはほとんどなかった。買い物を終えた人たちの顔には安堵(あんど)の表情が浮かんでいた。

震災当日のダイエー本社(東京都江東区)。発生40分後に設けられた対策本部では、仙台店へ商品を配送する準備が進められていた。

同社の東北地方の店舗は最盛期に10店舗前後あったが、業績悪化などで閉店が相次ぎ、今では仙台店1店だけになっていた。飛び地となった同店は、提携している同業他社の東北の物流センターを利用していたが、震災で同センターが利用できなくなり、自力で動くほかなかった。

対策本部メンバーの総務人事本部の野口敏光副本部長が口を開いた。「たった1店舗でもお客さまはいる。全力で営業を再開する」。社員の総意だった。

動きは速かった。千葉県の自社センターから配送することを決め、輸送用の10トントラック15台を確保。警察には緊急優先車両の許可証を届け出た。各部署は、指示を待たずとも動き出していた。その背景には「1995年の阪神淡路大震災の経験」(野口副本部長)があった。

ダイエーは阪神淡路大震災で、創業者で当時の会長兼社長の中内功氏が震災翌日の開店を指示、ヘリコプターなどを駆使した行政顔負けの大規模な物資輸送態勢を組み、24店舗で営業再開を実現した。当時の経験は災害対策マニュアルにも反映され、スムーズな対応を可能にした。

業績悪化が続いていた同社は2001年に中内氏が退任し、04年には産業再生機構の活用が決定。現在はイオンや丸紅の支援を得て立て直しが進められているが、野口副本部長は「DNAはずっと受け継がれている」と胸を張る。

「近くにダイエーがあってよかった」

仙台店の芝村店長は、買い物を終えた客からかけられた言葉が忘れられない。小売りの力を今、改めてかみしめている。(金谷かおり)


転載